それは「新しい問題」ではない
代理出産(surrogacy)とは、他者に妊娠を依頼し、お互いの同意の上、医学的な介入、ときには性交による自然妊娠を経て、産まれた子を依頼者が引き取るという、契約妊娠を指す。これはしばしば「生殖技術の進展」により生じた「新しい問題」とされるが、歴史的に見れば、代理出産/契約妊娠は、科学技術の進歩の結果というより、古来よりさまざまな文化の中で用いられ続けてきた、いわば<おなじみの方法>である。
西洋の古典的代理出産
古来の代理出産(古典的代理出産)は性交により妊娠し、生まれた子を依頼者に渡すものである。西洋文化圏における有名な例として、聖書の記載が挙げられる。アブラハムの妻サラは不妊で自ら子を産めないため、自分のエジプト人女奴隷・ハガルにアブラハムの子を産ませている(創 世記、16章)し、ラケルはヤコブとの間に子を作るため、やはり自分の女奴隷に子を産ませている(創世記、30章)。これらの記載から、かつて奴隷を側女(代理母)として子を得る行為が一般的だ ったと推測される。
韓国・中国の古典的代理出産
東アジアでは、同様の慣習が比較的最近まで存在していた。 たとえば朝鮮時代の韓国には「シバジ」(直訳すると「種受け」)と呼ばれる代理母が存在してい た。渕上によると、シバジは子どもの産めない妻に代わり、夫と性交して男児を産むことを生業とし ていた。シバジは男児を産めば高い報酬を受け取ることができたが、女児を産んだら、ごく僅かな報酬をもらうのみで、その子を連れて村に帰るので、シバジの村は女ばかりとなり、シバジの娘もまたシバジとして生きていく。 中国では、元代以前から明清朝にかけて、租妻(妻の賃貸)や典妻(妻の質入れ)と呼ばれる行為により、他人の妻を借りて子を産ませることがあった。この制度を用いて他人の妻を借りる側の多くは、自らの妻が原因で子がいないとか、子が夭折し妻は老年で出産できない、あるいは貧困で妻が娶れないといった背景のもと、子を得るために実施していたという。そのため本制度は「租吐 子(腹を貸す)」とも呼ばれていた。
日本の古典的代理出産
子を産ませる目的で女性と契約する制度は日本にも見られる。江戸時代中期から明治初期までの妾は、性欲の対象としてだけではなく、子を得るための役割も果たしていた。江戸時代中期には、「妾奉公」の名で、一種の職業的立場として扱われる場合もあった。妾奉公に関する資料によると、奉公期間中に得た子は主人の子となるが、妾は年季が明ければ子を残したまま、何も求めず家を去らねばならなかったことが示されている。 生殖目的としての妾の位置づけは、明治政府が制定した「新律綱領」の中にも、明確に表れている。そこでは家が子を得る必要性から、妾が正式に法律上の家族制度の一員として位置づけられた。加藤秀一は、これら妾の役割を「上層武士階級にとっての妾とは「『家』を維持するためのい わば『生殖装置』」であり、明治初期の家族制度への導入も「生殖機械としての女性を効率よく利用することで『家』の継続を保障し、国家の基盤を強化」するためだったと論じている。
近代的代理出産の“発見”
西洋における古典的代理出産は、キリスト教の影響により、遅くとも 11 世紀ごろにはこの習慣が 実質的に禁止されるようになったと考えられる。同様に、韓国・中国・日本など東アジアにおける古典的代理出産制度・慣習も、それぞれの文化圏に西洋文化が流入すると共に、女性の権利を侵 害する非人道的なものとして、廃止に至っている。 他方、米国ではこうした古来の契約妊娠が、「代理出産(surrogacy)」という名で新たに“発明” され、売り出された(「代理出産とは2:米国の再発明」を参照)。聖書の記述や東アジアで実施されていた慣習を「古典的代理出産」と呼ぶなら、こちらは「近代的代理出産」と呼び得る。そして、この近代的代理出産を多くのメディア(あるいは代理出産の先導者)はしばしば「科学技術の恩恵」といった言葉で表現してきた。しかしながら、代理出産で用いられる技術は、人々がイメージするような最先端の科学技術ではないうえ、現在では、より安価な代理出産のため性交による代理出産も報じられている。すなわち代理出産の根底にあるのは、科学技術や性交の有無でさえなく、「子を妊娠し引き渡す契約」の有無である。 代理出産という問題を考えていく際には、近代社会がいったんは「非倫理的」「非人道的」とラベ ル付けした行為が、「科学技術の進展」「科学の恩恵」という新たな言説をまとい、あたかも別の行為として認識され、容認されているという点を十分踏まえておくべきであろう。
本質にある倫理的問いとは
代理出産は、しばしば「子宮の貸し借り」の言葉で表現される。しかし代理出産は、取り出し可能な臓器の贈与や交換ではなく、生きた人間の身体行為そのものを他者へ利用させる行為である。 近代社会では、人体工場や臓器の取引が禁止されているように、他者の生存そのものを取引の 対象とする奴隷制や、たとえ一部でしかなくとも、人体部品を譲り渡す行為は、禁忌とされている。 それにもかかわらず、こと代理出産に限れば、女性の身体そのもの――そこには当人の意志の関 与できない生理活動も含まれる――を貸し借りや取引の対象とする方法が、取り立てて大きな抵 抗もなく普及し、さらに拡大されようとしている。 性と生殖に関連する場面では、女性の身体は、ごく簡単に他者による介入や取引が可能な存在 として位置づけられる。この社会は、女性が一般的な臓器や組織工場になるのは許さない一方で、 こと生殖の文脈では、女性の体を守ろうとしないばかりか、むしろ積極的にそれを他者のために利 用させることが推奨される。 この行為の本質にある倫理的問いとは何か。それは、古来より続き、いまだ明確な回答のなされ ていない困難な問題、すなわち妾制度や奴隷制度、または現在の買売春議論まで続く、他者の身体を利用することは許されるのかという問い、その行為をめぐる議論の中に見いだされよう。
参考文献
- 柳原良江、2011、「代理出産における倫理的問題のありかーその歴史と展開の分析からー」、『生命倫理』、第 22 号、日本生命倫理学会。
- 柳原良江、2015、「人体収奪の新形態−米国における日本人向け卵子提供産業の現状から−」、『生命倫理』、25 号、4ー12頁、日本生命倫理学会。
- 柳原良江、2017、「フェミニズムの権利論」、田上孝一(編)、『権利の哲学入門』、社会評論社。
- 渕上恭子、2008、「「シバジ」考̶̶韓国朝鮮における代理母出産の民族学的研究̶̶」、『哲学:特集 文化人類学の現代 的課題Ⅱ』、119 号、三田哲学会。
- 加藤秀一、2004、『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたかー性道徳と優生思想の百年間』、筑摩書房。