フィンレージの会の、鈴木さんより下記の文章を頂きました。
「卵子の老化」について思うこと
鈴木りょうこ
フィンレージの会ニューズレター 第117号(2012年10月13日発行)掲載
過日、フィンレージの会事務所にNHKの記者さんが来ました。今年2月に放映された『クローズアップ現代』と6月の『NHKスペシャル:産みたいのに産めない〜卵子老化の衝撃〜』の取材・制作に携わった女性です。このテーマへの感想や意見、今後の支援や啓発のあり方などについて話を、ということでした。
実は私自身は番組を観ていません(その後のレビューは読んでいますが)。もともとTVはほとんど観ないのと、このテーマだと観れば気持ちが乱れるだろうな、と思っていたからです。
しかし、番組を契機として「卵子の老化」という言葉はあたかも流行語(?)になったような気配もあり、記者の方にお話したことも含め、この件について少し思っていることを書きたいと思います。
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前述のように、「卵子老化」はなんだか社会事象、不妊の問題を表現するひとつのキーワードにもなった感があります。
9月13日付毎日新聞も、連載『こうのとり追って:第5部・考えよう妊娠、出産』で〈2 卵子の老化「知らなかった」〉という見出しの記事を掲載しています。本文には【もし、若いうちに卵子が老化すると知っていたら】【だが年齢が上がると、卵子が老化して、妊娠しにくくなる。そのことを斉藤医師(筆者注:国立生育医療センター不妊診療科医長)が患者に説明すると、ほとんどの患者が「知らなかった」と答えるという。】とあります。
加齢により妊孕力が低下するのは私にとっては常識でした。一般に35歳以上の妊娠は「高齢妊娠」と呼ばれ、受精卵の染色体異常が増加すること、また妊娠高血圧症候群(いわゆる妊娠中毒症)などの合併症のリスクや分娩時のリスクも高くなることなども、知識としてはありました。私の年代(1960年代生まれ)だと、多くの方がなんとなくではあってもこうした知識を持っていたのではと思います。実際、フィンレージの会でも、発足のころ(私が30代だったころ)は治療の区切りを「40歳(あるいは42歳)」にしていた方が多かったと記憶しています。「卵がとれない」「体外受精を繰り返しているが妊娠しない」と嘆く方も、多くは30代半ばでした。不妊専門医が「33歳とか35歳を過ぎると卵がガタッととれなくなるんだよね。だから治療を始めるならできるだけ早く来てほしい」と話していることも、よく話題になっていました。
しかしここ10年、特に最近は30代後半で結婚、40代で治療という方がとても多くなり、この嘆きもその世代の方から聴かれることが多くなりました(会員さんの平均年齢が現在はたぶん40代になっているであろうことも影響していますが)。
正直、42歳、43歳、あるいは45歳などの年齢の方のこうした嘆きを耳にしても、私はもう言うべき言葉がみつかりません。年齢から考えて、妊娠はかなり難しい。確率的に低い。体外受精を受けるにしても、それはダメモトくらいに考えないとできないかもしれない。またそれは子どもを得るためではなく、自身が納得するためかもしれない。そうやって少しずつ、自分の状況を呑みこんでいくしかないかもしれない……。
嘆かれている方には、たいていそんな話をしています。
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それはさておき、私は最近「卵子の老化」という言葉、表現に違和感を持つようになりました。
加齢による妊孕力の低下は、身体の摂理です。
日本人女性の閉経は平均で50〜51歳。前後10年は更年期ですから、一般には45歳からは更年期。ちなみに〈更年期〉をキーワードにネット検索をすると、「女性の卵巣の働きは30歳ぐらいをピークにゆるやかに低下し始める」「卵巣機能がストップするとやがて閉経」などの記述が多数出てきます。そう、正確には「卵子」だけが“老化”するのではなく、加齢で卵巣機能が低下するのですね。
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NHK記者さんに対し、同席したスタッフのNさんは「卵子老化という言葉には“人”が見えない」というニュアンスのことを伝えていました。私も同感です。卵子がただの細胞のように聞こえる。「卵子老化」という言葉、イメージが先行し、「なら卵子の若返りを」「若い女性の卵子をもらう」という感じに話が流れていきそうな危惧を抱きます。
また、NHK記者さんは「加齢による卵子の老化に苦しむ女性に、どのような支援を訴えればよいか」と問いかけられたのですが、この問いも何か変というか、ねじれがあるように感じます。
少なくとも私自身は「加齢による卵子の老化」に苦しんだのではない。「子どもができないこと」に苦しんだのです。課題は「子どもができないこと」であり、「卵子の老化」ではなかった。繰り返しますが、課題を「卵子の老化」としてしまうと、結局は前述のような「若返り」など、「vs加齢」「vs老化」といった科学的解決/技術的解決に陥ってしまうのでは、と。(ついでに言えば『加齢による不妊』もおかしな言葉だと思っています)
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体外受精や顕微授精が“あたりまえ”の不妊治療ワールド(?)に入り込むと、卵子や精子があたかも“ワタシ”から独立した—切り離された—“モノ”“細胞”のように思えてしまう/思わされてしまう、扱われてしまう/扱ってしまう……ことがあるように思います。
しかし、卵子や精子はまぎれもない“わたし”の一部。その“わたし”が愛しいと思う別の“人”と出逢い、そうして新しいいのち/人格が誕生する。うまく言えませんが、そうした大切な、いのちの“かけら”。
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不妊の悩み・苦しみは、とても人間的な悩みだと考えています。たくさんの感情を持ち、迷いながら生を営む人間=“わたし”丸ごとの悩み。体外受精や顕微授精は「科学」「技術」に過ぎず、この悩みを助ける「方法」を提供することはあっても、本質的な意味での「解決」「解消」を導いてくれるわけではありません。あたかも修理・交換ができるような感覚で卵子・精子を見つめること、あるいは「卵子老化」をキーワードに不妊を語ること―いってみれば科学的解決をめざすこと―は非常に危うい。それは、ともすれば“わたし”の人間性を損ね、また不妊の人間的な解決——それぞれが不妊を自分の人生の中でどう位置づけていくか——を見失うことになりはしないかと思うのです。
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今号のニューズレターではこの夏開催された「iCSi会議」「日本生殖看護学会」という2つの大きな会議の報告も掲載していますが、この会議でも「提供精子・卵子による妊娠」は大きなテーマでした。どちらの会議もそれ(提供精子・卵子)が自明の選択肢のように語られている印象があり、いまこの項を書いている私は、まずその大前提に疑問を投げかける作業も大切なのではと思い始めています。
不妊の「解決」を、「科学」から「人」の手―人間的な営みの中での取り組み―に取り戻すために。(すずき)