生命科学技術は不可能を可能にする。代理出産もその一つである。けれども可能であることが全て、私たちの社会で行われるべきとは 限らない。
代理出産は、私たち自身や、自分の家族、親しい人々の命と健康を奪う危険をもたらすが、それらはいかにして正当化されるのであろうか。代理出産は、親を契約により決める行為であるが、生まれた子どもにとって、契約上の親が本当の親となりうるのか。また、自分の体から生み出した人間が、子と赤の他人となりうるのか。そもそも親子のつながりが、誰かの意思に基づいた契約により決められる社会を、我々は欲しているのだろうか。
現実として、すでに数多くの問題が生じている。いくつもの調査が、代理出産を引き受けるのは低所得の女性であることを指摘しており、代理出産が普及すれば、人体を搾取する手法として成立するであろう姿を予測している。実際に、発展途上国の女性たちが生活費を得るため、先進国の人間からの代理出産依頼を引き受けている場合もある。そのうえ依頼者たちがより安い身体を求めて、さらに貧しい国の女性に依頼する事例も生じている。
無償の場合のみ容認する国や地域でも問題は後を絶たない。女性は孵卵器でも保育器でもなく、一つの統合された身体を持つ人間である。 当初は割り切れると信じられた行為であっても、実際に経験した人から、苦悩の声が上げられている。米国内では、代理出産を不妊夫婦 への善行だと信じて志願したその当事者たちが、自ら後悔の念を綴り、禁止運動が進められた経緯がある。
しかしこうした問題点を、私たちは十分に認識しているだろうか?世論はメディアに影響される。人類への福音と称され、不妊夫婦の悩みに焦点をあててきた報道が、私たちの発想に影響を及ぼしてはいないか。肯定的な意見が論じられるとき、その裏に必ず存在する、産む人の葛藤、その家族の苦悩など、産みの当事者の問題は認識されているのであろうか。報道では置き去りにされがちなこれらの側面にも光が当てられてもなお、人々はこの行為を、福音として楽観的に捉えることができるのだろうか。
本会は、代理出産に関して、過去に日本学術会議で指摘されてきた自然科学や法学の領域における問題はもちろん、身体の商品化、 いのちの階層化といった、わが国の議論では十分に語られてこなかった社会的・倫理的側面を捉え、問題意識を共有する多くの人々とともに、代理出産の位置づけについて問い直していく。その作業を通じて、私たちと、私たちの大事な人々たちが、自らの身体を他者に 利用されることも、他者を利用することもなく、安心して生を営める社会をめざすものである。
代理出産を問い直す会発起人一同