声明文(2010年10月1日)

野田聖子議員の提供卵による妊娠と一部マス・メディア報道に関するコメント

    • 平成22年8月25日より報道されている提供卵を用いた野田聖子議員の妊娠は、野田聖子議員本人と、一部マス・メディアにより、国内の法律の不備を訴えるアピールとして報道されているが、この解釈は事実誤認である。
    • 野田議員は日本における「法の不在」を自ら作り出し、自身は渡米して卵子を購入した。これは立法者として持つべき良識から逸脱した行為であるし、野田聖子氏により歪曲された上記のストーリーを検証せずに伝えた一部マス・メディアの姿勢も倫理的に問題がある。
    • 本会は卵子提供に関して、代理出産と同様に身体の搾取や人体の道具化、生まれる子どもに苦悩が生じるなどの危険をもたらす点があることからその実施には慎重になるべきと考えている。
    • 上記見解の詳細について以下に述べる。

1.野田聖子氏による事実の歪曲

      1. 野田氏が作り出した法律不在

卵提供にかかる法整備が成立しなかったのは、野田氏は自らが2003年厚生労働省生殖補助医療部会報告書に基づく法案の提出を阻んできたことによる。(その経緯は『産婦人科の世界』の記事を参照)

同報告書はすみやかな立法を求めていたが、仮に野田氏が法案にさまざまな問題点を認めたのであれば、自らが中心となり実現可能な法案を整え、早期に国会に提出すべきであった。

その政治的責任を果たすこともなく国内の状況を放置し続け、海外で卵子提供を受けた事実は、政治家としての責任感を欠くのみならず、法の不在を「恣意的に」作り出した疑念さえ生じさせる。

国内の動向の無視

野田氏は、一患者として、自らの努力でJISARTの定める要件を満たすことにより、国内で配偶子の提供を受けることも選択できたが、一連の報道はこれらの動きにまったく触れず、一方的に議論の不在、法律の不在、関係者の「無理解」を強調している。

長期に渡り積み上げられ、既に存在する議論を敢えて無視する野田氏の姿勢は、国内の議論や状況を軽んじており、立法者として正当化できる判断とは考えられず、議員としての良識を欠いたものである。

1.養子縁組に対する印象操作

一部の報道では、野田氏が養子縁組を選択しなかった理由として野田氏本人の言葉を引用しながら、あたかも養子縁組制度やそれに基づく団体が野田氏を門前払いしたかのような、あるいは「厳しい条件をつきつける頭の固い団体」のような印象操作がなされている。

しかし養子縁組の際に提示される条件は、子どもの福祉を第一に据えた結果として定められたものであるし、そもそもこれらは親の保護を失った子のために整備された制度であり、子の欲しい親の欲求を満たす制度ではない。

実親の保護を失った子どもを迎える場合には、特別養子縁組、普通養子縁組のほか、里親、季節里親、週末里親などの制度もある。これらの選択肢に触れることなく「養子縁組」とひとくくりにし、野田氏の言い分のみを取り上げる報道は、事実を公平に伝えているとはいえない。

2.公人による情報操作への荷担

    • 上記の事実を確認せず、または敢えて無視した上で、公人である野田氏による、事実を歪曲化させた発言をアナウンスした一部マス・メディアの姿勢は、メディアが本来果たすべき責任を放棄したものである。

3.今回の卵子提供が持つ問題

  • 卵子売買として

報道によると野田議員は、米国の卵提供エージェンシーに数百万円を「支払った」という。 「善意の提供」と繰り返し述べるが、その実態は卵子の「売買」であり、人身売買としての倫理的問題を孕んでいる。

卵子提供は、排卵誘発剤の副作用による健康被害や、提供者が不妊になる可能性があり、身体的なリスクも少なくないうえ、米国での卵提供は、裕福な高齢者が、若年者の社会的な弱さにつけ込み、身体を不当に利用する側面をも持つ。たとえば、卵子提供・代理母出産情報センターの鷲見侑紀氏が、同センターが扱う提供者のほとんどが日本人留学生であると述べていたように、米国の卵子提供者は学生であることが多く、その産業構造は経済的に弱い若年女性の存在のもとに成り立っている。

またそれらは、長くAIDを実施してきた慶応義塾大学において、学生が自らの生殖のあり方や将来の家族形成に関して十分に認識しないまま、教員に促され精子を提供することになった事実が示唆するのと同じく、学生たちが自らが生殖に関わる事の重みについて十分に認識していない未熟さに人々が便乗し、提供者の将来への配慮を欠いた形で実施されている可能性もある。

上述の課題に加えて、2008年にインドで日本人男性医師が代理出産を依頼した事例にも象徴されるように、「生殖ツーリズム」が海外の貧困層の身体を搾取する行為として世界的に問題視されつつある現状では、卵子提供のあり方も国際的な枠組みで深慮せねばならず、その実施には慎重になる必要がある。

  • 生まれた子どもの抱える負担

近年、精子・卵子提供による生殖が、生まれてくる子へ大きな心理的負荷(アイデンティティの危機、遺伝的特質を遡れない事実への苦しみ)をもたらすことが次第に明らかになっている。日本でもAIDで生まれた人たちの自助グループや、彼らが中心となる「第三者の関わる生殖技術について考える会」が発足しており、カップル以外の第三者が生殖に関与することの問題性、子どもの心理的・法的課題について真摯に考えねばならない。

  • 高齢女性の負担

今回の事例では、ほぼ閉経期にある野田議員にホルモン剤を使用して生殖技術が進められていることが推察される。50代の実母が娘のために代理出産をした事例の問題とも関連するが、自然には分泌されない女性ホルモンを人工的に大量に投与することによる、女性の側の身体的負担は非常に大きい。

このような方法を用いた妊娠・出産を無批判に肯定・賞賛することは、同様の立場、年齢にある女性に、高リスクの妊娠・出産を期待したり強要する社会的風潮を生み出しかねず、この点についても熟慮が必要であろう。

以上

2010年10月1日
代理出産を問い直す会

声明文(2012年11月7日)

自民議員有志による「生殖補助医療に関する法律骨子素案」に対するコメント

 去る2012年6月10日付け毎日新聞に「代理出産 容認を検討 自民議員有志が法案素案」との記事が掲載された。 これによれば、「卵子提供や代理出産など第三者がかかわる生殖補助医療について、自民党の議員有志がこれらを条件付きで容認する内容の法案の素案をまとめた」とあり、同法律素案(以下:素案)の内容には「提供された精子、卵子、受精卵を使った体外受精を認める」うえ、代理出産に関して「子宮がないなど医学的に妊娠能力のない夫婦に限り、家庭裁判所の許可を得た上で実施する」ことなどが含まれるとされる。本素案に関し、メディアでの公表後5ヶ月を経過した現時点でも素案が棄却されたという報告はなく、今後、仮に具体化のため推進されるとすれば大きな問題を引き起こす事態が懸念されることから、当会はこの動きに対し深い憂慮を表明する。

素案には、代理出産、卵子提供、精子提供に関して、諸外国はもちろん日本国内で積み上げられてきた議論や当事者の意見が何ら反映されていない。特に代理出産に関しては、2008年に提出された日本学術会議報告書「代理懐胎を中心とする生殖補助医療の課題-社会的合意に向けて」が示したように、医学的問題、家族関係において生じる問題、女性を産む道具として扱う倫理的問題、人身売買、子どもの福祉など、既に数多くの問題が指摘されている。そして本声明文の後半で述べる様に、これらの問題に対し現状では何ら対策が見出されていない上、本声明文後半に示すように、報告書が提出された後も次々と新たな問題が表面化している。

このように問題が放置された中で、仮に素案のような法律が成立すれば、日本の生殖医療が混乱に陥るのみならず、今後の日本を形成する若い世代の人々の性と生殖の健康、尊厳、そして生まれる人々の人権が侵害される危険性が大きい。これらの問題意識を踏まえ、当会は、とりわけ代理出産に関して、本素案の全面的な撤回はもとより、それらの実施を全面的に禁止する法律を整備することを提言する。

以下に本結論に至った具体的な理由を説明するとともに、社会的に追いつめられている当事者に対し別の形による援助の必要性を述べる。


 1.代理出産の「条件付き容認」をめぐる諸問題

素案は、代理出産の扱いに対し「子宮がないなど医学的に妊娠能力のない夫婦に限り、家庭裁判所の許可を得た上で実施する」と言明している。日本の今までの議論では、代理出産を限定的に認める場合、しばしば生まれつき子宮を持たない女性、または子宮を摘出した女性への適用が提唱されてきた。しかし子宮を持たない女性だけが代理出産という「他者の身体を利用する特権」を与えられる理由は何であろうか。ある人が妊娠・出産できない身体を持つ事実は、いかなる理由や経緯であれ同じであるにも関わらず、子宮の有無にのみ基づいてこのような特権を付与するのであれば、子宮はあるが別の疾患を持つ人に対する新たな差別が生み出される。現にイスラエルでは、近年になり、子宮を持たない女性ではなく、子宮があっても妊娠・出産に耐えうる体力を持たない女性による依頼する事例が増加している。1

次に金銭授受の問題がある。素案には「営利目的の代理出産には罰則を設ける」とあるが、「無償」ならば問題はないのだろうか。無償であることを条件に代理出産を容認する国や地域でも、代理母への経費の受け渡しは認められているが、近年では、妊娠という“労働”に見合わない事を理由に、経費以外の報酬も容認するよう求める意見が生じている。事実、経費以外に「プレゼント」の形で代理母と依頼者の間に経済行為が行われており2、将来的に「無償」という条件が形骸化することは必至である。

また、そもそも依頼者と特定の関係にない第三者が「ボランティア」で妊娠を請け負う形式が想定されているのであれば、それ自体が非現実的な発想でしかない。日本では、過去に諏訪マタニティークリニックの根津医師がボランティアを募りアンケートを実施したものの、そこで示された代理母役割に応える女性は皆無であった。これらを踏まえると、日本で第三者が代理出産を実施する場合には、何らかの商業的行為として成立すると考える方が自然であろう。

このような現状において、無償に限定して容認を認めるとすれば、結果として完全な“無償”の「ボランティア」となりうる立場にある近親者(実姉妹、義姉妹、実母、義母、従姉妹等)への圧力が高まることが懸念される。特に経済的・社会的に弱い女性を対象とする行為である側面から、こうした事例の積み重ねは生体間臓器移植の事例にも増して「近親者がそれを行うべき」という規範を容易に作り出すものと考えられる。

2.「医の倫理」と「子の福祉」に反する行為として

医の側面から
代理出産は依頼夫婦の身体を治療するものではない。それゆえ第三者に実施される「身体改良」であっても「医療」ではないし、医療者は他者を人為的に妊娠させることにより、第三者の心身を危険に晒している。

日本における周産期死亡率は、技術の進歩や関係者の努力によって非常に低く抑えられているとはいえ、妊娠および出産そのものが依然として健康と生命に関し無視しがたいリスクを伴うものであり、現に米国では代理出産による死亡例も存在する3し、近年では、複数回の代理出産後、子宮破裂・子宮摘出となった事例も報告されている。4そのような医学的リスクの可能性も認知していながら代理出産を実施するのであれば、その医療者は誰の健康状態も改善しないばかりか、故意に他者の身体に危害を与え、医の倫理に明確に反する行為を実施することとなる。

とりわけ子どもの立場に立ったとき、「医の倫理」が抱える問題は深刻である。現時点で代理出産、卵子提供、胚提供など、母胎と遺伝的に繋がらない子が抱える医学的リスクについては、まだ実験的な段階でしか判明していない。すなわち現実に行われている行為は全て臨床試験という性格をもち、生まれる子どもたちは、同意のない被験者となっている。

社会的側面から
代理出産は、社会的に「子の福祉」を害する側面をもつ。代理出産の受託者が事前に「同意」したとしても、妊娠期間を通じて胎児との結びつきを感じ、出産後に子の引渡しを拒否した事例はすでに広く知られているし、代理出産によって生まれた子が依頼者夫婦の子であることを事前に定める法律を作ったとしても、実際の子の特徴(性別や障がいなどを含む)が依頼者の希望に合わなかった場合には引き取りを拒否したり、事実上養育を放棄することも考えられる。現に外国にはすでにそのようなケースが存在し5、それらが日本でのみ生じない保証はどこにもない。.

3.追い詰められた依頼者たちへの心理的・制度的援助の必要性

 上記の理由により、代理出産はいかなる形態でも社会として正当化・合理化されえず、禁止されるべきである。もちろん、それぞれの人が「子どもが欲しい」という欲求(子ども願望)を抱くことは、社会的・一般的に是認されるものであるが、そうした願望は、あらゆる限度が取り払われてしまうほどに膨張する場合もある。技術的に可能でさえあれば、どれほどのリスクがあろうとも、どれほど費用がかかろうとも、どのような方法によろうとも「自分(たち)の」子どもを得たい、そうした願望に支配されてしまうような場合には、生殖医療を用いるに先だって心理的および社会的なサポートが必要とされる。近年では、このように代理出産しか救われる道はないと思わせてしまうような社会、家族概念のあり方が問題である事実も、広く認識されるようになっている。

それゆえ本会は、代理出産に対する、より抜本的な解決手段として、その禁止を求めることに加え、代理出産の実施を願うほど追い詰められた人々に対する心理的・制度的援助(心理社会的相談、グリーフワーク、養親・里親制度へのアクセス等)の整備についても検討されるべきと考えているそのような援助の中で、当事者たちが閉じられた価値観に追いつめられることなく、パートナーと共に生きる生活について考えたり、養子を迎えたりすることなど、より現実的な選択肢を早くから検討する手助けをすることも可能となろう。

現在のように、追い詰められた当事者に対して、不妊治療現場の医療者だけに判断をゆだねるには限界がある。子ども願望をめぐるこのような強い感情の存在を前に、今後は産科医や看護師だけでなく、精神科医や臨床心理専門家などの協力体制のもとで、個々の当事者に寄り添うかたちでの医療体制が提案されるべきであろう。

以上

2012年11月7日
代理出産を問い直す会

  1. Elly Teman, 2010,“Birthing a mother: The surrogate Body and The Pregnancy Self“,p301.
  2. Seattle Times, “State House says paid surrogacy should be legal“ by Brian Everstine, February 15, 2010.
  3. 1987年10月のデニス・マウンスさん死亡例について、大野和基『代理出産――生殖ビジネスと命の尊厳』、集英社、2009年、115頁以下参照。また2012年5月16日にはインドで代理母が死亡は本記事
  4. 昨今では次の事例が報道されている。「代理母から届けられていた子宮破裂で全摘の悲劇」、『女性自身』、2012年7月、2548号、161頁。
  5. たとえばドイツの事例として、高嶌英弘「代理母契約と良俗違反 : ドイツの判決を素材にして」、「京都産業大学論集. 社会科学系列」10、1993年、44-71頁。

声明文(2018年3月20日)

アナウンサー丸岡いずみ氏によるロシア国内の代理出産依頼に関する、一部マス・メディア報道に対するコメント

去る2018年1月23日に、マス・メディアにおいてアナウンサーの丸岡いずみ氏と夫の有村昆氏が、ロシア国内で商業的代理出産を依頼し、代理母が男児を出産したことが報じられた。

この代理出産依頼は、丸岡いずみ氏らによる個人的な行為であり、それ自体は本会の関与するところではない。しかしながら本件を扱う報道の一部は、丸岡氏の代理出産依頼を、あたかも「美談」あるいは「望ましい行為」であるかのように伝えており、本行為が社会的な議論の的となっている現状を考えると、配慮に欠いた報道のあり方には、懸念を抱かざるを得ない。以下にその具体的な背景を説明し、主にTV番組『ミヤネ屋』を例に、こうした報道がもたらす問題を指摘する。

商業的代理出産に対する議論

丸岡いずみ氏らの実施した、「生殖アウトソーシング」と呼ばれる「商業的代理出産」は、実施場所であるロシア国内でも批判の声があがっており、昨年末には禁止法案が提出されている。(リンク:ロシアの状況)またロシアに関わらず、他国の女性を利用する「生殖アウトソーシング」とよばれる方法は、女性への「暴力」「人権侵害」として国際的に問題視されている。研究者はもちろん、女性団体や市民団体を中心に、代理出産の世界的な禁止を求める国際的キャンペーンが実施されており、1 近年では国連もこの問題を取り上げている。2 

日本国内では、「生殖アウトソーシング」の形式はもちろん、「代理出産」という方法自体が、社会的側面はもちろん、医学的にも危険を伴うことから、医療者や法曹を中心に長らく問題視されてきた。2008年には学術専門家たちが、代理出産を原則的に禁止すべきとの報告書を提出している。3

代理出産への誤解

このような現実があるにも関わらず、公益性を重視すべき大手マス・メディアが、本行為が惹起する深刻な問題に触れず、あたかも「美談」であるかのように論じれば、日本国内の視聴者に、代理出産に対する誤解を与えかねない。

とりわけ実際に不妊治療で悩む女性にとって、その誤解は深刻である。代理出産は、不妊女性の「治療」ではなく、代理母と依頼者の結ぶ「契約」である。(リンク:代理出産の歴史)しかしマス・メディアが、代理出産を不妊治療の延長として論じる報道を続ければ、不妊で苦しむ女性に、代理出産を最終的な「医学的治療」と位置づける、誤ったメッセージを伝えることになる。

『ミヤネ屋』報道内容における問題

上述の問題意識に照らしあわせると、2018年1月23日放送の情報番組『ミヤネ屋』は、生殖アウトソーシングによる人権侵害や、ロシア国内でそれを禁止する法案が提出された事実、また近年、アウトソーシング先となった国々が挙って禁止法を制定しつつある世界的な動きを、明らかに軽んじたものであった。それらは放送倫理・番組向上機構(BPO)が定める、「日本民間放送連盟 放送基準」の第1章(人権)、第2章(法と政治)、第6章(報道の責任)、第6章(報道の責任)、第7章(宗教)、第8章(表現上の配慮)に抵触するか、或いはそこで謳われる倫理観への配慮に著しく欠けるものである。4

上記『ミヤネ屋』放送分では、代理出産が孕む上記の問題を論じないだけでなく、視聴者が想起するであろう批判的意見を、巧みに隠蔽する演出が取られていた。そこでは、子が生まれた直後に、現地との生中継の形で、感動を伝える舞台を用意した上で、代理出産の成功に喜ぶ依頼者の姿や、渡航生殖に至る依頼者側の都合ばかりを伝え、依頼者の歓喜を強調する内容となっていた。

さらに『ミヤネ屋』では、日本の法律に関し明らかな誤報が含まれている。5 また代理出産という方法への理解が不十分なうえ、海外の法律に関しても、曖昧な表記で誤解を招きかねない表現もあり、事実確認が十分に行われていない。6

本会は、上記放送のように、代理出産がもたらす人権問題や国際的な視点、または宗教団体の公式見解を考慮しないばかりか、生まれた人の存在を利用する、政治的に恣意性の高い報道を、公共性の求められる地上放送が実施した事実、さらにそれらを法律に関する誤まった理解のもとに伝えた事実を強く批判する。そして、丸岡いずみ氏の事例に限らず、世界の様々な場所で実施されている「生殖アウトソーシング」に対し、今後も同様の報道が繰り返されることに、深い憂慮の念を示している。

以上

2018年3月20日
代理出産を問い直す会


注1:たとえば、2015年に始まったキャンペーン「STOP SURROGACY NOW」(英文。日本語ページあり)では代理出産の禁止を求めて国際的な人権運動が展開されている。本キャンペーンには、様々な国々の研究者やNPO団体はもとより、代理母経験者や生まれた人も参加している。

注2:国連における報告内容の映像はこのリンクから閲覧可能である。

注3:無償の場合を含め、代理出産のもたらす社会的・科学的問題については日本学術会議報告書に詳細が示されている。とりわけ医学的側面については、代理出産に限らず、第三者の卵子を用いた妊娠が引き起こす問題が指摘されている。(日本では、このようなニュースが報じられている。また研究結果を参照した数字はこちらのニュースに記載。妊娠する女性の年齢によらず、医学的リスクは上昇する。)

注4:各章に関する具体的な論点は以下の通りである。

「第1章 人権」第4項「人身売買および売春・買春は肯定的に取り扱わない。」

 代理出産は、一部の地域で合法化されている米国でも、人身売買および売春として根強い批判が存在する上、ロシア国内では、国会議員が「売春」と同列の行為として批判し禁止法を提出している。当事国で「人身売買」あるいは「売春まがい」と論じられる行為を、一方的に美談として伝える報道は、著しく見識に欠けるものである。

「第2章 法と政治」第8項「国の機関が審理している問題については慎重に取り扱い、係争中の問題はその審理を妨げないように注意する。」

 自民党は党内にPTを設けて生殖技術の法制化を検討しており、当該番組でもその法案に関する言及があった。しかし2014年にPTが提示した法案は、一部の無償代理出産は容認するも、対価の生じる代理出産は刑罰をもって処する内容である。この法案は自民党内でも異論があり集約には至らず、2016年に自民党部会が了承したのは法案そのものではなく、付随する「民法の特例法案」であり、これは代理出産の容認とは無関係の内容である(たとえばこのリンク先を参照)。

それにもかかわらず、ミヤネ屋は、あたかも当該法案が通れば(あるいは将来的には)、今回丸岡氏の実施した「商業的代理出産」も日本で合法化されるかのように表現している。視聴者のミスリードを誘う、軽薄なコメントである。

「第6章 報道の責任」第34項「取材・編集にあたっては、一方に偏るなど、視聴者に誤解を与えないように注意する。」

 上記で説明したように、本件は世界的な社会問題に対し、明らかに、その方法による利益供与者(依頼者や斡旋業者)の一方的な見解しか示しておらず、視聴者に誤解を与える。

「第7章 宗教」第41項「宗教を取り上げる際は、客観的事実を無視したり、科学を否定する内容にならないよう留意する。」

 本事例で、丸岡いずみ氏は、代理母がクリスチャンである事により、その宗教的意義から代理出産を引き受けたかのように説明していた。しかしロシアのクリスチャンの96%以上が所属するロシア正教会は、かねてから代理出産を極めて強い言葉で批判し、政府に禁止を求めている。番組では、丸岡いずみ氏の客観的な根拠に欠ける説明を、何ら精査せずに論じている。

「第8章 表現上の配慮」第47項「社会・公共の問題で意見が対立しているものについては、できるだけ多くの角度から論じなければならない。」

 世界的な批判はもとより、日本国内で長らく議論が続く「代理出産」という方法の置かれた状況を考えると、本番組は明らかに一面的な意見しか伝えていない。

同章第9項「国際親善を害するおそれのある問題は、その取り扱いに注意する」との関連

 ロシア国内で批判が高まり、禁止法案が提出されている最中に、ロシアの世論を無視する形での本報道内容は、ロシアの世論を無視した身勝手なものとなりかねない。かつて日本人男性がインドで代理出産を実施し国際問題へと発展した事例(マンジ事件)や、タイで大量に代理出産を実施した男性がインターポールの捜査を受けた事例(「赤ちゃん工場」事件)を考慮すると、国際的な批判を引き起こしかねない本事例は、より慎重に扱うべきであった。

注5:ミヤネ屋による日本の法律に関する報道内容は、次の点で事実と異なる。

  •  宮根氏は「出産した女性が母親であるという日本の法律があって、2015年、民法の特例法案が自民党の部会で了承したんですが、いま先送りされているというところで」と述べ、その後に「まあ、将来的には了承されると思いますが」と述べる。しかし日本には「出産した女性が母親」という法律は存在していない。
  • 2014年に自民党PTが提示した当初の法律案は、一部の無償代理出産を容認する内容を含んでいたが、そこで容認されるのは原則、先天的・後天的に子宮のない女性などの場合であり、丸岡氏のようなケースは該当しない可能性が高いものであった。
  • 2015年ではなく2016年に最終了承されたのはPTの作成した法案そのものではなく、あくまで親子関係を規定するための「民法の特例法案」であり、その内容は卵子提供や代理出産においては「産んだ女性が母」とするものである。従って本法案が成立しても、それは丸岡氏らの事例を直接に支持するものではない。

注6:BPOに明文化された基準とは別に、報道の正確性という見地から、ミヤネ屋で用いられた資料には以下の問題が存在する。

  • 本番組では、代理出産を(番組内では斡旋業者がしばしば用いる「代理母出産」の言葉を利用)、夫婦の精子と卵子を用いる方法として述べているが、実際の代理出産では、同性カップルや独身者はもちろん、不妊夫婦であっても、卵子や精子を購入したり知人から譲り受ける事例も多い。卵子提供を用いる代理出産は日本でも90年代から見られるものであり、斡旋業者の鷲見ゆき氏によれば、夫婦が提供卵子を用いる例は、2003年の時点で既に半数近くを占める。※ そのような事実がある中で、ミヤネ屋が用いた資料は、世界はもとより日本国内における代理出産という方法の在り方に対する現状を反映しておらず、矮小化させた認識を与えてしまう。
  • 本番組内で映し出された資料には、代理出産の可能な地域として「アメリカ(州ごと)、ウクライナ、メキシコ、タイ、ロシアなど」とある。これらのうち丸岡いずみ氏の実施した商業的代理出産が可能なのは、アメリカの幾つかの州とウクライナ、ロシアのみであり、メキシコとタイは、外国人による商業的代理出産を禁止している(それらの経緯はこちら)。ミヤネ屋の資料では丸岡いずみ氏の実施した外国人による商業的代理出産と、無償の代理出産、あるいは国籍条項のある代理出産を区別していないが、本映像の文脈に照らし合わせて見た場合には、あたかもそこに掲載された全ての国で、丸岡いずみ氏の事例が可能であるかのような誤解を与えかねない。
次の論文に詳細を記載。柳原良江(2011)「代理出産における倫理的問題のありか一その歴史と展開の分析から一」、『生命倫理』21(12-21)、日本生命倫理学会。

 


<付記>
丸岡いずみ氏の代理出産に関する報道では、「代理母出産」の表記が用いられているが、本会では「代理出産」として表記している。その理由はこのリンク先を参照されたい。

 

第4回研究会 秋葉悦子先生ご報告全文

当日は研究会前半にて小門穂氏のフランスに関する報告がなされた後、休憩を挟み、秋葉先生の報告が行われました。

「イタリアとカトリックの生殖補助医療をめぐる倫理問題」

秋葉悦子: 今、自己紹介をしておりまして、お名前だけ存じ上げていて文献をたくさん読ませていただいている先生方がいらっしゃっているので、緊張してうまくお話できるか上がっておりますが、よろしくお願いします。

水野先生(注:東北大学水野紀子氏)がおっしゃっていた自由主義が日本では著しいのですが、私はその自由主義生命倫理とは反対の立場、人格主義生命倫理についてお話させていただきます。

今、皆さんの自己紹介をお聞きしていて、法哲学の方もいらっしゃいますし、法律学の方、社会学の方もいらっしゃいますので、先ほどきちんとお話しなかったのですが、なぜ刑法を専攻していて、生命倫理を研究することになったかを簡単にお話させていただきます。特に、なぜカトリックの生命倫理を研究することになったのかを――もう少し今日の話をご理解いただけるのではないかと思いますので――お話させていただきます。

大学院では刑法を専攻しておりまして、安楽死の問題を修士論文で扱いました。このとき、当時の日本の刑法学は自己決定権と自由主義の立場を最初から土台にしていました。その土台を問うのは法哲学ですが、私は法哲学を勉強せずに刑事法を専攻しましたので、自己決定権の立場からの結論しか出てこないのです。つまり1つの世界観が最初から前提にあって、その上に組み立てていく議論しかできなかったのです。

富山大学に赴任しましてから、かなり自由な研究環境に恵まれましたので、そのとき出した自由主義の結論、つまり、自殺の権利を認めるという結論で本当にいいのかどうかを、法哲学にさかのぼって少し考えてみようと思い、独学で法哲学を勉強し始めました。

出身が上智大学でしたので、キリスト教倫理の専門家が周囲に大勢いました。修士論文の審査のときに教会法担当の神父がおり、専門の立場から自殺についてのレクチャーをしてくれたのです。当時はドイツの法律を調べておりましたが、判例の文言の中に、キリスト教の伝統的な倫理ではこういう考え方をする、ということが普通に書かれています。ドイツの刑法の背景にキリスト教の倫理があること、その意義深さをこのとき実感しました。

日本で今、問題になっている安楽死や、受精卵の実験、生殖補助医療の問題もそうですが、これは倫理の問題です。それについてドイツやフランスやイタリアでは一応倫理学の議論を見て、その後でそれを踏まえて法律学者が議論するという仕組みになっていると思うのですが、日本では、法律の人がいきなりそれを議論しています。では日本の倫理学者はどうしているかと言うと、どうもあまり法律学とは連動していない。

それで、富山に参りまして間もなく半年間の在外研究の機会を与えられましたので、ヨーロッパの法律の土台にあるキリスト教の倫理をしっかりやってみたいと思ったのです。しかし在外研究先に選んだのはアメリカのジョージタウン大学でした。ジョージタウン大学は、ご存知のとおり、自由主義生命倫理学を始めた本拠地です。しかしその研究所に半年間勉強に行くプログラムを組んでくれたのは上智の生命倫理の先生でした。アメリカに行く前にスペインとイタリアにも立ち寄りました。イタリアはちょうど生命倫理の国際会議があったのでその様子を見るだけの予定だったのですが、たまたま訪れたローマの大学、教皇庁立のグレゴリアン大学ということころだったのですが、世界中から生命倫理の研究者が来ており、「カトリックの生命倫理をやりたいならなぜアメリカに行くのか。アメリカの生命倫理は自由主義で、カトリックとは反対の立場だ。私は伝統的な生命倫理を学ぶためにイタリアに来た」というようなことをアメリカの学者に言われて、はじめて事態に気づいたのですが、それを全然知らずに行ったわけです。結局、行き先を変更して、イタリア語もできないのに半年そこにおりました。

要するに、生命倫理という言葉が使われたのはアメリカが最初ですが、生命倫理の実体はヒポクラテスの時代からあり、それを実質的に発展させてきたのがカトリックの倫理神学という分野だということに、そこで気付きました。その後、やり始めてしまったことでもあるし、特にカトリックの立場としてそれをやるとか、そういうことではなくて、日本では全然知られていない――私自身もそうでしたが――欧米には個人主義の生命倫理しかないと思っていたのですが、そのリベラルな生命倫理のカウンターパートが実はヨーロッパにちゃんとあって、――それが今、保守的と言われているカトリックの生命倫理です――それを紹介しようと思ったのです。ところがそれは、実際にはかなり大変な作業でした。まず、自由主義の強い日本で紹介しても、保守的な倫理の話は誰も聞きたくないわけですし、刑法は脱道徳化が戦後のうたい文句になっています。刑法と道徳が日本では分離されておりますので、倫理学をやっても法律に反映するまでに非常な距離があります。

もっとも最近は少し風向きが変わってまいりまして、カトリックの考え方を随分いろいろなところで紹介させていただけるようになりました。聞いてくださるのは、特にほかの宗教の方、それから主に実務に就いている臨床医です。2006年に富山で人工呼吸器の取り外しの事件(射水市民病院事件)が発覚し、自己決定権に基づいた決定がなされようとしましたが、事態は急展開して、そうではない、人格主義的な解決がなされました。それは、自由主義とは別の考え方、倫理主導の伝統的な考え方に基づくものです。先ほど水野先生が医者の本能とおっしゃいましたが、本能というよりも、職業倫理上の使命感かもしれません。

ヒポクラテスの「医の倫理」というものがあります。患者のために自分の技能を使って奉仕するという徳の倫理なのですが、これが個人主義、自由主義、自己決定のカウンターパートです。私はこのカウンターパートの方を調べて紹介してきたのですが、カトリック倫理そのものを提示するといろいろと反発が強いので、イタリアの例を紹介することもしてきました。イタリアはヴァチカンのおひざ元にあり、かなりカトリックの影響が強い。そして、医者の組織が非常に強いところでもあります。イタリアで生命倫理を担っているのは、倫理神学の養成を受けた医者です。私がローマで教えを請うているのは、大体が医学者です。受精卵の問題については、ヒト遺伝学の世界的権威の医学部教授が神父でもあります。ですから、倫理神学の養成があり、医療倫理が実践でできてという人が大体担い手になっているので、非常に科学的であり、しかも伝統倫理にのっとった――カトリック倫理という言い方をしないで、普遍的な自然道徳法などいろいろな言葉が使われていますが――カトリックだけではなくて、普遍的に使えるものにする取り組みを、カトリックでは非常に熱心に追求しています。法哲学の方は、自然法の立場をお取りになると大体接点があるというか、同じ立場に行きつくのだろうと思います。前置きが長くなりました。

人格主義生命倫理というのは、カトリックで使っている名称で、リベラルな自由主義生命倫理の対概念としてつけられたものです。英語ではパーソナリスティック・バイオエシックスです。西洋の生命倫理には2つあって、個人主義と人格主義、これは単純な図式化といってよくお叱りを受けるのですが、こうでもしないと日本で生命倫理と言うと、左側の個人主義がすべてだと思われてしまいます。上智大学はカトリックの大学ですが、そこでも生命倫理の研究をしたいと言ったらアメリカに行くように言われたということが、すべてを如実に物語っています。何年か前の日本生命倫理学会でフランス人の教授がヨーロッパの伝統的な生命倫理について講演したのですが、そのとき著名な日本の倫理学者が、「西洋に別の考え方があるのを知らなかった」ということを公の場で発言されたのは非常に印象的でした。

生命倫理は1960年代にアメリカで始まったとされています。それ以前は生命倫理という言葉自体はありませんでした。しかし、この個人主義生命倫理というのは、実は右側の人格主義生命倫理を否定して、そのアンチテーゼとして生まれてきたものです。つまりゼロからのスタートではなくて、既存の考え方とは反対の立場を取って、伝統を切り捨てる立場を取っているのが個人主義だということです。最高原理は個人の自己決定権ですが、この反対が人間の尊厳です。人格主義は人間の尊厳が最高原理です。

本日はわざわざご説明するまでもないかもしれませんが、バイオエシックスの誕生は、アメリカでちょうど公民権運動が盛んだった時代です。ビートルズの時代、ウーマンリブの時代です。先ほどどなたかリプロダクティブ・ライツの話をなさいましたが、社会的弱者が社会的強者に対して反抗するという、そういう社会革命が公民権運動です。男性に対して女性、黒人に対して白人、学生に対して教師――学生運動です――、そして患者さんが医者に対して、反抗します。

アメリカは人種のるつぼですので、共通の倫理がないと言っては語弊があるかもしれませんが、ピューリタンの倫理もあれば、様々な国からの入植民の倫理もあって、人種も社会的身分もまちまちですので、合衆国としてみんなで一緒にやっていくためには、憲法が最低限のルールになります。合衆国憲法がすべてで、そこを起点にします。

ですから、弱者が強者に対して戦うときに何を目標にするかと言うと、合衆国憲法に勝ち取った権利を書き込むことです。どんな権利を勝ち取るか。女性の中絶権、自分で決める権利、個人情報をコントロールする権利、――加藤尚武先生は「愚行権」という言葉を造られましたが――愚かなことをする権利。いろいろな権利が新しく考え出されました。リプロダクティブ・ライツ、子どもを持つ権利もそうです。男同士であっても、女同士であっても、技術でそれができるのであれば、そういう権利もあっていいわけなので、どんどんそういう権利を主張し、勝ち取っていきます。このようなムーブメントの中で患者の自己決定権というものも出てきました。

ここには合衆国の建国の理念が反映されていて、個人を大事にします。もともとイギリスで国教会の迫害を受けたピューリタンが、新天地を求めてアメリカに脱出してきたわけですので、権威に対して非常に反抗するし、自分たちで新しい国を造るとき、自分たちを迫害したような公権力に頼らない。アメリカでは「小さい政府」ということを言いますけれども、個人が自分のイニシアチブを発揮できることが一番大事ですので、自由の権利が強調されます。同時に、アメリカで一番大事にされるのはプライバシーの権利だと言われます。このプライバシーの権利というのは、個人が公権力から干渉されない権利です。公権力の干渉をできるだけ排除します。アメリカではプライバシー権が憲法上の最高の権利と言われますが、これはヨーロッパの憲法には出てきません。公権力と個人とをこのように対立関係でとらえるのは、アメリカ独特の考え方です。

何が言いたいかと言いますと、ここでわざわざ申し上げるまでもないのですが、アメリカは独特な政治状況の中で、独特の人格概念を醸成してきたということです。ハーバード大学ロースクールの法律学の教授、グレンドンがこのことを指摘しています。ドイツの憲法に描かれている人格は、人と人との関係を大事にする。それは孤立した個人を対象にしていない。それに対してアメリカの人格は、個人のイニシアチブを大事にする。1人にされる権利、1人でいることを許してもらう権利、人から干渉されない権利を求める孤立的な自己、それを対象にしていて、その人格概念に大きな違いがある。これは合衆国憲法の話です。ジョン・ロックの政治思想にそれが描かれているのですが、これをそのまま生命倫理の問題に適用してもいいか、そこには無理があるのではないか、とグレンドンは指摘するのです。

このようなアメリカの独特な人格概念、アメリカの「人格」は、しばしば法的権利主体と同視されます。ですから生まれた後の人を指します。人格という言葉は、もともと法的権利主体を指すだけのことばではないのですが、アメリカの新しい個人主義生命倫理は、人格を最初から法的な権利主体を表す語としてのみとらえ、この法律上の概念である「人格」を倫理でも採用する。個人主義生命倫理の大きな特徴です。

個人主義生命倫理の想定する自己像として、「孤立的自己」と書きましたが、これについて、最近面白い文献を見つけました。東大医学部の名誉教授、大井玄先生が書かれた本の中に「文化心理学」という割合新しい学門分野の紹介があって、その文化心理学によると、世界には2つの自己観、「孤立的自己観」と「関係的自己観」がある。この「関係的自己観」は割合普遍的な考え方で、「孤立的自己観」は、アメリカに特異な考え方なのだそうです。もちろんアメリカ以外でも、移民やニューフロンティアの状況を想起していただきたいのですが、非常に広大な土地に人間がいて、――隣の家まで何キロもあるような――、自分の力で土地を切り開いていくような環境があって、このような自己観の形成が初めて可能になる。日本では北海道の人にこのような自己観の持ち主が多いという調査結果もあるのだそうです。ところが、1人ひとりにこのような広大な空間が与えられていないところでは、長屋やマンションなどに住み、お隣と密接にかかわっていて、親戚も知り合いも身近に大勢いる、そういう閉鎖的な社会では関係的自己観が形成されます。ここでは「孤立した個人」というものはイメージしづらくて、大体、何かを自己決定すると言われても、実際には自分だけで決めていない。周りのことを考えて決める。安楽死の問題についてもそうです。もし自分が何か人に迷惑を掛ける状態になったら死にたい。それは人に迷惑を掛けるから死にたいのであって、アメリカ人は、自分がもう、1人で自立できない、自分1人で決められない、イニシアチブを発揮できない。そのことがつらいから、だから死にたいのだという答えが返ってくるのだそうです。しかし日本人はいつも他者とのかかわりの中で決定をします。そして世界的に見ると、インドもそうだし、アフリカもそうだし、日本人のような反応がむしろ標準的であって、孤立的自己観はごく特殊な地域で見られるにすぎないのだということです。

戦後の日本は、刑法学もそうですが、個人主義が急に入ってきて、今までの関係的自己の持ち主が、孤立的自己――大井先生の言葉では「アトム的な自己」――を確立できないで、いろいろな葛藤があるところから、鬱状態になったり、自殺が増えたり、ひきこもりになったりするのではないかというような感じがするのですが、いずれにしても、個人主義生命倫理も、この孤立的自己像をモデルにして、個人の自己決定権を最重視します。

それに対して人格主義のほうは、存在論に立脚します。存在論においては、個人にとって大事な価値、自己決定、自意識、理性の働きなどではなくて、存在そのものの価値を重視します。自己決定しなくても、自意識がなくても、人間の尊さというものをそれとは違うレベルで見ていくわけです。例えば、自意識の働きがない人に対しても、なんらかのつながりを持てればその人を大事に思うかもしれないし、その人の存在そのものの価値を認めます。つまり、自意識によって、理性によって自分の能力を発揮するなど、そういう考え方でいきますと、何が人間にとってよいことかということを考えますので、功利主義につながりますが、そうではなくて、存在そのものの価値、人間の内在的な価値というものを認めていくと、それが人間にとって利益になるかどうかではなくて、ともかく人間なので大事にしようと、そういう考え方になるわけです。

考え方の基礎を築いたのは、ジョセフ・フレッチャーというプロテスタントの神学者で、大谷いづみ先生が彼を取り扱った本を最近出されています。フレッチャーが1954年に出した『倫理学と医学』という本は、「カトリック以外で医療における倫理問題を取り上げた最初の書籍」といううたい文句になっています。彼はこの中で初めて安楽死を合法化し、正当化します。これが日本にも入ってきて、私が大学院時代に悩んだ、自己決定権による自殺の合法化につながります。日本でも宮野彬という刑法学者が積極的安楽死の合法化を唱えますが、彼もフレッチャーに影響を受けておりましたし、それから「日本安楽死協会」を作った太田典礼もこのフレッチャーの書物からヒントを得ていたのだそうです。

個人主義生命倫理について、スライドに「反宗教的」と書きました。この点については、あとでまた詳しくご説明致しますが、個人主義生命倫理は、要するに伝統的なカトリック倫理ではなく、世俗的な哲学に立脚しているということで、日本の哲学者がこれを組織的に輸入したのです。そして、教育現場にもこれをそのまま持ち込みます。アメリカの大学では大規模な教育プログラムを組んで在外研究者や留学生を受け入れました――私がジョージタウン大学に行こうと思ったのも、この教育プログラムを受講するためでした。そして個人主義生命倫理は日本にもすごい勢いで広がりました。

右側の人格主義のほうはどうかと言うと、先ほども申し上げましたとおり、生命倫理という言葉自体はありませんでしたが、その元になっているのは、伝統的なヒポクラテスの「医の倫理」です。これは紀元前のもので、非常に簡単です。要約すれば2つのことしか書かれていません。ヒポクラテスは、科学的医学を始めた人です。「科学」というのが1つめのキーワードです。もう1つは、「目の前の患者の善」です。科学を大事にします。科学的知識の行使は特殊技能ですので、これを守り、弟子に伝えて発展させます。医者はそういう任務も担うし、もう1つの任務も担うのです。目の前の患者を助けることです。では、科学を発展させるために目の前の患者を犠牲にしていいかと言うと、答えははっきりしていて、常に目の前の患者を助けることが優先されるのです。ですから、「科学」というのがキーワード。もう1つは「目の前の患者の善」。そして「目の前の患者の善」が常に優先します。

あとはこの応用問題というか、この原則を当てはめればよいのです。この「科学」プラス「倫理」、それを個別の問題に当てはめて応用問題を解いていきます。方程式はずっと同じです。イタリアではこのヒポクラテスの「医の倫理」を現代化する取り組みが続けられてきました。イタリアの話が日本の医者になぜ受けるのか。イタリアでの議論は、ヒポクラテスの「医の倫理」を共有している医者には理解しやすいからです。ヒポクラテスの「医の倫理」を継受したのはカトリックだけではありません。ヒンズー教とイスラム教、ユダヤ教にも継受されました。東洋とのつながりも指摘されています。「医は仁術」と言います。仁慈は儒教の最高倫理です。ヒポクラテスの「医の倫理」は東洋の徳の思想ともつながっています。

このように、ヒポクラテスの「医の倫理」自体は宗教とは無関係の世俗的なものだったのですが、ただ、多くの宗教はこれをこぞって継受して発展させました。それを最も組織的に学問体系に構築してきたのが、最近500年くらいの間のカトリック倫理学でした。私が個人主義生命倫理の反対の立場を研究しようと思って、カトリック倫理学を見なければならなかった理由は、ここにあります。ただ、カトリック倫理学は、ヴァチカンがほとんど世俗的な権力を失った現在、その実定法としての展開を見るためには、その影響を受けている国の法律を見ることが必要になります。イタリアの法律は、私の見る限り、生殖補助医療法もそうですが、カトリック倫理に一番忠実な形で展開されているので、イタリアの医療倫理や法律の文献も読まなければならなくなったわけです。

今の話を、時系列というほどではありませんが、一応上から順番に並べると、まずヒポクラテスの「医の倫理」があって、ここから積極的安楽死の禁止、またここには書きませんでしたが、人工妊娠中絶の禁止が導かれます。なぜかと言うと、人を殺すからです。「殺すなかれ」というのが第一の原則ですので、殺さないのです。イスラム、ユダヤ、カトリック、儒教がこれを採用して、16世紀ごろからカトリック医療倫理が体系的な学問として発展します。これを今、個人主義に対抗して人格主義と名付けて、カトリックが熱心に普及活動をしています。1954年にプロテスタント神学者のフレッチャーが――プロテスタントというところが肝心かもしれません、カトリックに反抗する立場です。フレッチャーはアメリカで一番政治的に力のある長老派の牧師です――カトリックでない医療倫理の書を初めて刊行します。積極的安楽死の合法化です。

84年に生命倫理学の体系的な教育機関が2つ創られます。ジョージタウン大学のケネディ研究所と、もう1つはヘイスティングス・センターです。そこで教育を受けた最初の卒業生は、ロバート・ヴィーチですが、彼が84年に書いた論文のタイトルは非常にわかりやすい。「ヒポクラテスの倫理は死んだ」。これが個人主義生命倫理学ですので、両方の立場は相いれない立場です。もっとも、有力な人格主義生命倫理学者はアメリカにもいます。かつてケネディ研究所の所長も務めたペレグリーノは、有名な生命倫理学者であり、医者でもあるのですが、保守的なブッシュ政権の下で大統領生命倫理諮問委員会の委員長を務めました。彼が最近書いたものをこの間翻訳したのですが、その中に、最近の個人主義生命倫理学は「脱宗教的」、つまり単に世俗的であるばかりでなく、「反宗教的」、「宗教敵対的」でさえあるということが書かれています。

以上から申し上げたいことは、この2つの真反対の立場が今、世界にあって、――単純化し過ぎかもしませんが――、この2つの構図を見ながらいろいろな問題を読み解いていくと、対立の根本にあるものが何か、割合わかりやすいのではないかと思って、私は大体この図式に当てはめて、普段ものを考えています。

今日は、代理出産の話ということでご依頼をいただいたのですが、代理出産については、お手元にレジメがあると思いますが、最後のところで生殖補助医療についてお話する中で触れさせていただきます。先に終わりのほうを見ていただいたほうがいいかもしれません。

スライドの31番にイタリアの生殖補助医療法について記しましたが、今日は本当にごく簡単に総論だけしかできないと思います。総論の基本コンセプトを読みます。

「生殖補助医療にかかわるすべての主体の権利を保障する」。先ほどから両親のことは話題に出ておりますが、「すべての主体」は、生まれてくる子どもの権利を含みます。では生まれてくる子どもの権利はいつから保障されるかと言うと、一番初めの受精のときからです。そうすると、体外受精も難しくなるし、今、日本では、iPS細胞から生殖細胞を作って、子どもを作っていいかどうかということが先ごろから議論されているようですが、ここでは、先ほど問題になっていた、卵子を摘出するときの女性のリスクなどは全く生じません。将来、人工孵卵器ができたら問題のありかがいっそう明確になるかもしれませんが、受精のときから子どもの人権を認めるとすると、人はどのように受精されるべきか、どのように生み出されるべきかという問題まで入ってきます。イタリアの生殖補助医療法は、「子どもの権利を一番最初から認める」ことをうたい、「その生命の開始、すなわち受精時から法的主体として保護する」という、これはかなり大胆というか、ある意味で論理必然なのですが、そういう立場を取ります。これは、生命科学技術の進展に対して、生まれてくる子どもの善を優先するという、伝統的な医療倫理に基づいた一つの明確な態度決定を示したものと言うことが出来ます。

32番を見ていただきたいのですが、2009年6月、受精時から人を法的主体とする民法改正案が提出されました。これは、「倫理を法に格上げする」という言い方をイタリアではよくするのですが、アメリカで倫理の議論が法律の議論に還元されてしまったのとは対照的に、イタリアはその逆方向が目指されます。倫理を明確にして、それを法に格上げするということをやっているのです。

このコンセプトにのっとるとどういう結論が導かれるかというと、大体のものは刑事罰で禁止です。胚の商品化、代理出産もそうです。人のクローニング、研究目的のヒト胚の作成と利用です。

フランスではなぜリベラルなのかということを先ほどご質問致しましたが、受精卵がまだ「人」でなければ、人間の尊厳原則に抵触せずに実験に使えるわけなので、そこが一番大事なポイントになります。あとでご説明するとおり、カトリックは科学的事実を重視して、生物学の議論を徹底的に尽くした上で、人の生物学的な始まりは受精時だということを認めます。

子どもが人として生まれてくることのためには、恣意的に作られてはいけないというような論理もそこから出てきます。優生目的の胚の選別と操作、それからハイブリット、キメラの作成、多胎妊娠における減数も駄目です。胚の凍結、破壊も駄目です。余剰胚の作成も駄目、ほとんどのことが禁じられることになります。行政罰で禁止されているのは、第三者の配偶子の使用、インフォームドコンセントをとらなかった場合、不認可の手術を適用した場合等などですが、イタリア生殖補助医療法が一番重視しているのは、子どもの権利です。それも、生きる権利だけではなくて、人格権も保護する。両親から生まれる権利等を保護する。そのような話になっています。

今日お話する内容のポイントは以上のとおりです。代理出産がなぜ駄目かというと、生まれてくる子どもの権利を侵害するからだ、ということなのですが、それをもう少し詳しく見るとどうなのか、前のスライドに戻りたいと思います。

人格主義生命倫理学の基本構造、6番です。科学的事実の承認。ヒポクラテス以来の科学的医学に立脚する立場を貫きますので、まず科学的事実をしっかり確認することです。ヒトの生命は受精時に始まります。「ヒト」とカタカナで書いたのは、生物学上の表記が「ヒト」だからです。まず生物学の議論を尽くします。その次に倫理の議論が来ます。その実質的な内容は「人間の尊厳」原則の確認です。

この「人間の尊厳」原則が何かということについては、もうさまざまな議論があるのですが、できるだけ立ち入らずにすませたいと思います。一言で言えば、それは、「誰でも例外なく人間の尊厳と基本的人権を認められるべきだ」という原則です。なぜ人間に人権があるかというと、尊厳があるからです。人権の前提が尊厳なのですが、先ほど申し上げたヒポクラテスの医の倫理、目の前の患者さん、目の前の人――その始まりの時から――を最大限に尊重する原則、と考えていただいて構わないと思います。両方を合わせると、「受精時から人間の尊厳と人権を例外なく保護しましょう」。これが人格主義生命倫理の基本構造です。

「科学的事実の承認」のあとに記したscienzaは、イタリア語で「科学」の意味です。そして「人間の尊厳原則の確認」のあとに記したcosciencaは、良心という意味です。良心と科学は日本語ではまったく別の言葉なのですが、語源が一緒なのです。つまり、科学はそれだけであるのではなくて、coという接頭詞は、それに伴うという意味ですので、コシエンツァは、シエンツァがあるところに、それに伴ってあるものです。後でまたご説明しますが、人間は肉と霊から出来ています。肉だけではない、目で見えるものの背後に必ずスピリチュアルなものがあります。その目に見えるものと見えないものが一緒になったのが人格です。同じように、科学は目に見えるシエンツァ(scienza)ですが、それが人間の技であるとき、そこには必ず目に見えない次元が入ってきます。スピリチュアルな次元、良心の次元、倫理の次元です。これは自然科学ではありませんので、良心や倫理の問題は自然科学の問題には還元できません。ですから、科学ではできるけれども、それを使ってよいか、どう使うかというのはコシエンツァの問題で、人間が科学をやるときに必ずそれに伴って良心の問題が出てくるという意味です。この良心の中身、ヒポクラテスの目の前の患者優先の態度を言いかえたのが「人間の尊厳」原則だと思っていただければ、大体よろしいのではないかと思います。

カトリックの最近の文献に『いのちの福音』というヨハネ・パウロ2世――前の教皇ですが――の回勅というものがあって、信者あての手紙なのですが、これは信者だけではなくて、全世界の善意の人に向けて書かれたものです。この中に「卵子が受精したときから新たな人の生命が始まる。現代遺伝学はこの不変の事実に貴重な確証を与えた」と書かれています。この箇所は、先ほどのシエンツァ、科学的な事実を記しているだけです。これはただ科学の事実を承認しているだけですが、このことのためにヴァチカンでは多大な精力をつぎ込んでいます。科学アカデミーという1603年にできた組織があるのですが、世界中から招いたノーベル賞受賞者が40人ぐらい含まれています。そういうアカデミーを持っていて、そこで現代科学の最新の事実を厳密に調べるということをヴァチカンはしているのです。こうして現代遺伝学の詳細な議論を踏まえた上で「卵子が受精したときから新たな人の生命が始まる」ということを言っているわけです。

コシエンツァのほうはどうかというと、「人は身体と精神の全体であり統合であるから、身体的に新たに存在し始めた初期胚には、既に精神的霊魂が宿っていると考えられる」と記されています。これは科学ではありません。これはカトリックの信仰なのか、良心の問題なのか、あるいはカトリックもゼロから始まったわけではなくて、その前にプラトンがありますので、プラトンの考え方もこれと同じだと言われていますが、それ以前からある宗教に基づくものなのかもしれません。いずれにしても科学的に解明できない部分ですが、このような人間観に立ちます。要するに、人というのは、身体と精神の全体であり統合である。両方は一緒になっていて、分離できない。でも、両方の次元がある。この人間観が出発点になっています。これを認めないと次に書かれているようなヴィジョンは出てきません。「したがって、人は受精時から人格として扱われるべきであり、また不可侵の生きる権利が認められなければならない」。

この中に日本語に訳すと、「人」という言葉と、それから「人格」という言葉と、「人間」の尊厳という言葉と、「個人」という言い方もあります。日本語では普通、ヒューマン・ビーイング(human being)という語を「人」に、パーソン(person)という語を「人格」に置き換えますが、人間という語は外国語にありませんので、人格と同じでいいのかどうか、いつも翻訳するときとても迷うところです。しかし「人間」というときは大体、その身体と精神の全体であり統合である人格のことを指していると考えられるように思います。一方、「人」という語は、法律用語でもあり、法的な権利主体のことを刑法でも「人」と言いますので、日本でもよく見られる、どこから「人」かという議論は、生物学のシエンツァの議論なのか、それとも倫理のコシエンツァの議論なのか、両者の区別はとても大事な問題です。

ヴァチカンの立場は、まず生物学的な事実を認めます。そして、自然科学ではないところで、人間にはスピリットもあると考えますので、人が物理的に存在すればそこにはスピリットが宿っていると考えて、そのスピリットの部分において人間は尊いと考えます。この考え方はいろいろなところで誤解されていますが、後で「パーソン論」が出てきますので、そこでまたご説明します。

2005年に現在の教皇ベネディクト16世に変わり、カトリックの教えを要約する文書が公表されました。現在の教皇は、前の教皇の時代に教理省という省庁でカトリックの教義を形成する仕事に従事してきた有名な神学者ですが、彼自身が用意したこの文書の中に、「個々人の譲ることのできない生存権は、その受精のときから、市民社会と法律を成り立たせる一つの要素です。国家がすべての人の権利、特に弱者、中でも出生以前の受精卵・胎児の権利の保護のためにその力を行使しないなら、法治国家の基礎そのものが脅かされることになります」(「カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)」カトリック中央協議会訳)という文言があります。

ここで主張されていることは、ヨハネ・パウロ2世もそうだったのですが、命の問題や性の問題などについて、よく誤解されるように、カトリック教会は、何か神の領域に人間が手を出してはいけないと命じているなど、よくそのようなことを言われるのですが、そういうことではまったくなくて、「受精卵のときから人権を守らなかったら、平和が守れない」と言っているのです。

ですから、生命倫理を社会倫理の問題と結びつけたところにヨハネ・パウロ2世の功績があった、独自性があったというように、今日では評価されているのですが、その路線を現在の教皇も推し進めているということです。ヴァチカンは今、領土を持っていませんので、国益を追求する必要からも解放され、純粋に世界の平和を追求する立場から、道徳的な指導者として、いろいろなところで政治の問題にも口をはさんでいます。今日のカトリック生命倫理は、単に信者さんに対して正しい性のあり方を説くというようなものではなくて、「弱い人の人権をどう守るかということが世界平和にとって大事なのだ」という、社会正義と結びつけた議論をしているということです。

ヴァチカンの公式見解と書きながら〔スライドに〕欧州議会やドイツの話を書いてすみません。一応色を変えたのですが、お配りしたレジメは白黒ですので全部一律に並んでいます。一緒にすべきではないかもしれませんが、歴史的に並べるとわかりやすいのではないかと思って、今回作ってみました。

1968年にパウロ6世の当時の教皇の回勅、信者あての手紙、これは全世界の人々に向けたものではなく、カトリック教徒のみに向けたものですが、『人間の生命-適正な産児の調整について-』という文書が公表されます。一般に普及した避妊方法を禁止するなど、非常に保守的な内容を含んでいるため、アメリカで新しい生命倫理を構築する運動が起きたきっかけの1つがこの回勅であると言われています。しかしこれ以前にも、哺乳(ほにゅう)類の卵子が発見されるのが1827年なのですが、1864年にピオ9世が受精のときから人であるということを最初に公式に認めた文書を出しているようです。島薗先生が文献の中で引用されているのですが、原典を確認しておりませんので、ここには書きませんでした。その後もピオ12世が、体外受精をしてはいけないということを再三注意している、そういう文献も見られるのですが、この問題についてまとまった文書が公表されたのが、68年のパウロ6世の回勅ということです。

74年に教理省から「中絶に関する宣言」が出されます。この中にも「受精のときから人だ」ということが記されています。そして「中絶は人を殺すことなのでしてはいけない」ということが記されています。87年にやはり同じ教理省から「初期の人間の生命の尊重と生殖の尊厳」という文書が出されます。「生殖の尊厳」というのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、カトリック倫理は人間の行為について「尊厳」という言葉をよく使います。後で「労働の尊厳」が出てきます。人間も馬も労働するし、生殖行為もするのですが、人間の行為についてはスピリットの部分が関与しますので、動物の行為とは違う意味合いがあるのです。物理的には同じ行為であっても、そこには別の次元が伴います。

人間の生殖にリプロデュース(reproduce)ではない、プロクリエイト(procreate)という言葉を使うのもこのためです。「生殖の尊厳」を含意する言葉です。教理省が1987年にこの文書を出した理由は、1978年に世界初の体外受精児ルイーズ・ブラウンが誕生したためです。不妊に悩んでいた人々にとっては福音でしたが、ヴァチカンは、体外で生産されるヒト胚にとっては、その後のさまざまな干渉を予測させる脅威的な出来事である、ととらえます。つまり、この時点で、この後、ヒト胚にもたらされる大規模な侵害を懸念していたのです。実際にこの懸念は現在、現実のものとなっています。余剰胚を使った実験は日本ではゴーサインですし、体外の受精卵に対しては誰でも容易にアプローチが可能です。研究用に体外受精卵を作成することさえ許されています。

ですから、教理省のこの文書、あるいはパウロ6世の回勅もそうですが、ここで考えられていることは、人間の受精卵は、通常であれば、お母さんのおなかの中で、お母さんに守られた状態で生を受けます――もちろんお母さんが中絶するということもありうるのですが、これはまた別な事態です。しかし母体外で作成された受精卵は、外からアプローチできる状態で生を受けます。外部の攻撃から身を守るものは何もありません。「容易に危害にさらさる環境で、最も弱い状態の人間を存在させてもいいのか」、そういう問い掛けをするのです。実際に今、一番弱い立場、無防備な立場の者が搾取の道具になっています。それを予見したのが87年の教理省の文書でした。

あとはこの路線が一貫して推し進められるのですが、この考え方に基づいて1989年にヨーロッパ議会で「体内および体外の人工生殖に関する決議」、それから「遺伝子操作の倫理的・法的問題に関する決議」が出されます。体外で受精卵を作ることができれば、これを操作する話はすぐに出てきますので、ヨーロッパ議会でこれへの警戒が示されます。1990年にはドイツで胚保護法が成立します。ドイツの対応が早いのは、人間の尊厳についての歴史的反省があるからです。ドイツはナチスの時代に優生学を推し進めました。これについては後に触れます。

95年にヨハネ・パウロ2世の『いのちの福音』が公表されます。ヨハネ・パウロ2世はこの『いのちの福音』の中で、生命倫理に関する諸問題を網羅的に扱っていますが、特に気にかけていたのが受精卵の問題でした。私が在外研究でイタリアを訪れたのは1995年の秋でした。『いのちの福音』が出されたのは3月でしたが、当時イタリアでは、人の始まりがいつかという議論で持ちきりで、安楽死の研究に来たと言ったら、それはもう解決済みで、今しなければならないのは体外受精卵の問題だ、と言われて、いろいろな研究者からヒト胚に関する文献を紹介されて面食らったことをよく覚えています。

ヨハネ・バウロ2世が生命アカデミーという新しい機関を、1603年に創設された科学アカデミーとは別に新設したのは、将来、現在のような事態、生命科学技術の進展に伴って、着床前診断や代理母、遺伝子操作など、新たな問題が次々と生じてくることを見越して、それに手を打とうと考えたからでした。科学アカデミーだけではなぜ駄目かというと、ここには倫理の問題が入ってくるからです。ヨハネ・バウロ2世は生命アカデミーのほかに、社会科学アカデミーも新設し、社会科学の問題についてはまた別の組織で対処する体制を整えましたが、当初、ヴァチカンが取り組もうと思った一番の課題は、この受精卵の保護の問題でした。

97年にクローン羊ドリーが誕生すると、生命アカデミーは直ちに『クローンに関する考察』という文書を出して、この中で、クローン技術は「生み出されるクローンの尊厳に反する」ということを明確に指摘します。欧州議会がそれを追ってクローンの禁止決議を出します。

ところが翌年、クローン胚からES細胞を作成する研究目的のクローニング――当初、「治療目的のクローニング(セラピューティック・クローニング)」という言葉が使われましたが――、の研究計画が提示されます。クローン胚を作って、そこからES細胞を作ることができるということになりますと、生殖目的のクローンには反対するとしても、拒絶反応のない再生医療の進歩のために、ES細胞を作成するためのクローニングを合法化しようとする動きが生じます。欧州議会は1998年に、生殖目的のクローニングのみを禁止する追加議定書を出します。生命アカデミーのほうでは、2000年に「ES細胞の作成と科学的・治療的使用に関する宣言」を出して、これに対抗する態度を明確に表明します。この文書の大半は、生物学の専門的な議論を扱っています。ヒトの生命の始まり、受精のメカニズムに関する生物学の議論が徹底的に検証されています。ヨーロッパでは当時、分子生物学者、発生学者、ヒト遺伝学者がこの議論の主たる担い手でした。この議論を踏まえて、哲学者や倫理学者が後に参入します。

2003年に生命アカデミーは、もう1つ別の文章を出します。これは当時、国連でヒトクローニングの是非をめぐる議論が紛糾していたのを見て、国連の議論に影響力を及ぼそうと考えたのです。「国際的な議論におけるクローニングの禁止」。これは当時展開されていた議論をひとつひとつ取り上げて、批判検討を加えたものですが、これも科学、倫理、法律の3段階の構成になっていて、それぞれ別の章を設けて議論していくのです。まず生物学的な事実はこう、それをもとにして倫理を考えるとこう、さらにそれをもとにして法律を考えるとこうなる、ということを3つの段階に分けて議論していくのです。

2004年にヴァチカンの国務省――外務省に当たる機関です――が、対外向けに、国連の議論にいっそう影響力を及ぼす目的で、生命アカデミーの文書を踏まえて、もう少し短いコンパクトな文書「ヒトクローン個体産生禁止に関する国際協議に向けて」を作成します。功奏して、2005年に国連でクローン全面禁止宣言が出ますが、条約にはなりませんでした。このような国際的な動向の中で、イタリアでは国連宣言の前年に生殖補助医療に関する法律が成立しますが、これは先ほど申し上げたように、クローンを全面禁止し、ヒト胚を用いた実験もすべて禁止という厳格な立場を取っています。

2006年に生命アカデミーが「着床前の段階のヒト胚」というパンフレットを出します。これは一般の人向けの平明なもので、ヒト胚に関する科学的事実と法的保護の必要性について記した、広報活動というか、教育活動のためのものです。そして2008年に教理省、これは先ほど言ったヴァチカンの教えを司る、一番権威のある部署なのですが、そこが「人格の尊厳・生命倫理の幾つかの問題について」という文書を公表して、この中で体外受精、それから代理母の問題、生殖医療等の個別の問題についてコメントしています。

ですから、今後、カトリック教会の生命倫理の公式の見解として冒頭に掲げられるべきなのは、今、最後にご紹介した教理省の文書なのですが、これまで述べてきた基本構造は一つも変更されていません。科学と倫理、そして始まりのときから尊厳と人権を守ること、生命権だけではなく他の重要な人権も守ることです。

以後のスライドは、生物学、シエンツァのさらに詳しい説明を書いたものです。簡単にご覧いただければと思います。  これはギルバートの発生生物学の教科書に掲載されている写真です。権威のある生物学の教科書なのですが、この中で人の始まりは――わかりづらいかもしれませんが――上段左が受精前の卵子です。上段中央が人の始まりです。卵子の核が成長して前核を形成します。ここでは卵子のイオン構造が全部変化して、カルシウム波が受精卵全体を覆います。新たな人の個体の発生の時点です。私は見たことがありませんが、この瞬間は、顕微鏡を通して肉眼で見ると、一目でわかるのだそうです。卵子の状態が一遍に変わるのだそうです。卵子のイオン構造が一挙に変わるということは、そこで別の個体が発生するということなのだそうです。先ほどの小門先生のフランスのお話では、医師会が割合好意的だということでしたが、医師たちは普段こういうものを目にしていますので、人の始まりが受精のときだということを、多分自分の感覚として知っているのだろうと思います。

次のスライドは詳しく書いただけのものですので、後でご覧いただくことにして、問題は、科学的事実をめぐって議論が戦わされたということに先ほど触れましたが、その事情を少しご説明したいと思います。ヒトの始まりが受精時であることに異論を唱えたのは、マコーミック、彼はイエズス会の神父で、ジョージタウン大学ケネディ研究所の倫理神学教授です。彼は医学の専門家ではありませんでしたが、生物学者グロブシュタインと共同で、14日目までの胚はまだ胚以前の段階のpre-embryoであると主張する論文を執筆しました。

イギリスで世界で初めてヒト胚研究の道を開いたのはウォーノック委員会でしたが、その委員として一番発言力を持ったのはマクラーレンでした。マクラーレンはノーベル章も受賞している発生生物学者で、日本でES細胞の研究をしている中辻教授の先生でもあります。ウォーノック委員会は様々な専門家を集めた委員会で、生物学の知識にみんな乏しかったところで、マクラーレンがこのプレエンブリオという概念を持ち込んだのです。受精卵もエンブリオですから、「エンブリオの前」を表すプレエンブリオという語は、まだ新たな人ではないということを含意します。「受精後14日目までエンブリオは存在しない」ことを示す、そういう新しい「プレエンブリオ」概念を作って、ヒト胚を使った実験を推進したい人たちに研究推進の口実を与えました。

ノーマン・フォードもカトリックの生物学者ですが、14日目までの胚は一卵性双生児を生ずる可能性があるから、まだ人の個体ではないと主張しました。先ほどの、個人を重視する自己観の持ち主にとっては、個人かどうかは非常に重要です。フォードは、一卵性双生児を生ずる可能性のある受精卵はまだヒトの個体、すなわち個人とは言えないから、「まだ細胞の塊にすぎない」と主張しました。

フォードの見解は、日本でも大きな力を発揮したと思います。日本での議論も14日目まではまだエンブリオではないということを前提に、簡単にゴーサインが出たと思います。要するにヒトの生物学的な始まりがいつか、この点が決定的なポイントなのです。人間の尊厳や人権を守るべきということについては、おそらくみんなの合意が得られると思いますが、受精卵に人という身分を与えなければ、簡単に実験材料にすることができるわけです。ヒト胚研究の是非について、科学の議論が一番大事だったのはこのためです。受精後14日目までは、まだ人が発生していないというのは科学的な誤謬(ごびゅう)です。プレエンブリオという言葉も、今日ではすでに発生学では用いられていません。一卵性双生児のメカニズムはまだ実証されておらず、フォードの見解も一つの仮説にすぎません。生命アカデミーの見解では、受精時にすでに個体が確立している。しかし初期の胚は可塑性に富んでいるので、なんらかのアクシデントで2つに分かれたとき、もう1つの個体が発生する可能性がある、ということです。シャム双生児のように、14日目以降でも一卵性双生児が発生する例もあります。

以下のスライドは、もう一つのコシエンツァについての説明です。これは国際法と生命倫理原則の確認です。世界人権宣言には、人間である限り、誰でも例外なく人間の尊厳と基本的人権を認められるべきである、との原則が記されています。人間の尊厳原則の起源は、世界人権宣言の半世紀前、1890年に発されたローマ教皇レオ13世の回勅『レールム・ノヴァルム-資本家階級と労働者階級の権利と義務』でした。19世紀最大の社会的不正義は、労働者の問題でした。労働の搾取の問題です。労働は人間の営みの1つであり、人間の生活と切り離せないものです。ですから、経済効率だけを追求してはならないので、人間らしい働き方というものがあるはずなのです。今日では労働基本法が整備されていますが、当時、労働者の権利は保障されておらず、経済発展のために大規模な労働の搾取が行われていました。その不正を糾弾したのが『レルーム・ノヴァルム』でした。

先ほど社会科学アカデミーの話をしましたが、今日のカトリック教会の社会正義についての基本文書が、この『レルーム・ノヴァルム』です。「人間は経済発展の手段ではない」。今日の生命倫理問題もこの応用編です。「人間は科学の発展のための手段ではない」。両者はまったく同じ構図です。「人間の尊厳」原則は、戦後、国際的な医学研究倫理の最高原則にもなっています。世界人権宣言自体、ナチスの医師たちの人体実験に対する反省から生まれたものなのですが、世界医師会もヘルシンキ宣言を出して――これはヒポクラテスの「医の倫理」の現代化と言うことができると思います――、医学を発展させなければならないけれども、被験者の利益を優先しなければならないことを明確にしています。

最近の国際的な医学研究倫理の一つとして、96年の生命倫理条約を挙げることができます。生命倫理条約というと、一体どのような内容のものかわかりませんが、正式なタイトルは「生物学と医学の適用に関する人権および人間の尊厳の保護のための条約・人権と生物医学条約」というのです。「人権と人間の尊厳の保護のための条約」であることが明確にされています。

次のスライドのクローニングの国際規制については先ほど触れましたが、ここでは生殖目的のクローニングがどのように人間の尊厳に反するかを、少しご説明致します。これはハンス・ヨナスというユダヤ人哲学者の言葉です。「ヒトクローニングは、方法においてこの上なく専断的であり、目的においてこの上なく奴隷的な遺伝子操作の形態である」。ヴァチカンの文書もこれを引用しています。別の言葉で言うと、ヒトクローニングは「優生計画である」。優生計画という言葉もヨナスの表現ですが、ここで問題にされているのは、クローン技術によって作成されるクローン人間の尊厳と権利です。どのような権利が侵害されるかというと、異性の両親から生まれる権利、それから家族や親族を持つ権利です。生きる権利だけではなくて、どのようにして生まれてくるか、生まれ方に関わる権利です。人は誰でも自然の生殖においては、お父さんとお母さんから生まれてきます。家族や親族を持つ権利は、水平方向と垂直方向、両方の方向の家族・親族関係を持つ権利です。クローン羊ドリーの母親は、年の離れた双子の姉です。父親はありませんが、父方と母方の祖父母が遺伝学上の父母に当たります。ドリーは垂直方向の子孫との関係も、水平方向の親族関係も複雑な環境で人格形成をしなければなりません。

それから、クローン胚の自己決定権も問題にされています。卵子がどうやって受精するのか、どの遺伝子をどのようにプログラミングするのかは、誰かが決めるのではありません。第三者が恣意(しい)的に決める、あるいは操作するのではなくて、その卵子自体が選び取っていきます。偶然に定まるというよりは、卵子とその精子の出会いによって、いろいろなことが決まっていく。人はみんなそのように、誰かに決定されたり干渉されたりしないで生まれてくる権利があるのに、クローン技術で生まれてくる人間は、最初から操作されて、遺伝子を決定されて生まれてくる。これは「優生計画」である。そして、これとほぼ同じ論理で、着床前診断も非難されることになるのです。

クローニングの禁止をめぐる国連での議論の際、アメリカはクローンに反対する側に回ったのですけれども、実は、反対の理由をまったく見出すことができませんでした。同じく日本の刑事法学者の間でも、クローン禁止の根拠について多くのものが書かれましたが、どれも歯切れが悪いのです。個人主義の立場をとる限り、クローン禁止の根拠を見出すのは無理です。個人の自己決定権を認め、受精卵の人権や尊厳を認めないのであれば、子どもを持つ権利、リプロダクティブ・ライツを主張する側が勝つに決まっていますので、クローニング禁止の根拠は出てきません。しかし、生命の開始時から人権や尊厳を認めれば、クローン禁止の根拠は全部きれいに説明できるわけです。アメリカが全面禁止に賛成したのは、結局、当時のブッシュ政権が保守的な立場を採用していたためでした。フランスは戦勝国でもあり、優生思想に対して割合寛容なためか、反対に回りましたが、ドイツとイタリアは優生思想に対する反省――敗戦国ですので――が効いていて、人間の尊厳原則にも非常に敏感であるという事情などもあるのではないかと思います。

人間の尊厳原則に対する異論は、人の倫理的地位、すなわち人格概念をめぐって展開されます。これは哲学の分野では大変な論争になっているところです。人格とは何か――この議論にはもうあまり立ち入りたくないのですが――今度は生物学の議論から離れたところで、生物学ではそうかもしれないけれども、「人格とは何か」という問題は必ずしも生物学のみに縛られないのではないか、独自の人格概念があってもいいのではないかが議論されます。しかしそのようなことを誰かが言い出しますと、それはもう100人いたら100とおりの人格概念が生まれても不思議ではないわけです。

代表的な見解は、自意識を重視する立場です。「人格とは理性的な、自意識のある存在だから、自意識または人格性を示す他の外面的な行為、態度、能力を持たない人は人格ではない。したがって尊厳と人権も持たない」と主張します。3歳児、植物状態の人は人格とは認められないので、生きる権利もない。したがって自由に殺してもかまわない、少なくとも生命権の侵害はないことになります。この論理でいくと、ヒト胚ももちろん人格とは認められません。では、3歳まで人格ではないのか。そう主張する見解もありますが、多くは、14日目までの初期胚は、少なくとも知覚能力をつかさどる神経細胞の元である原始線条がまだ発生していないから、当然人格ではない、と主張します。しかしこうなってくると、人格の開始時点については、本当にいくらでも線が引けるので、いろいろなバリエーションが考えられることになると思います。反論するほうも大変です。

しかし、この考え方の一番の問題点はどこかと言うと、この論理は、奴隷制を肯定するための論理と同じであるところです。ヴルテニウスという法律家(1565年~1632年)は、奴隷制を肯定するために、初めて法律の領域にこの人格概念を持ち込みました。そして人格性をそなえた者の尊厳だけを認めようとしました。人格でない人間は、物扱いしてもよいことになります。これは、奴隷制を許す論理なのですが、同じように、14日目までのヒト胚を物扱いすることを許す論理が、今、復活していると言うことができます。

これに対する反論として、レジメにはグアルディーニの見解を挙げました。「本来の人格概念は、自己支配、人格的責任、真理と道徳秩序のうちに生きる能力を意味する。それは、年齢、身体、心理状態、自然的素質によるものではなく、存在に関わるもの(existential)であり、精神と身体の統合体である人間の本質を構成する精神的霊魂(spiritual soul)によるものである」。大事なのは「存在」であって、人間の尊さは「精神と身体の統合体である人間の本質を構成する精神的霊魂」だとされています。すなわち、人間は物質、DNAだけで構成されているわけではない。物質と、物質でないもの、すなわち身体と精神との両方から構成されている。そして人間の本質は精神の部分にある。しかし両者は不可分に結びついて切り離すことができません。肉体があるところに即ち精神がある。この考え方は、ときどき誤解されるように、精神だけを大事にして肉体を軽視するものではありません。

これはシスティーナ礼拝堂の天井に描かれているミケランジェロの「アダムの創造」です。アダムは立派な肉体をしていますが、力がありません。まだ精神が宿っていないからです。今、右側にいる父なる神――キリスト教の「三位一体」の神である、「父」と「子」と「聖霊」の「三位」のうちの「父」――が、アダムに精神を吹き込んでいるところです。それによって命あるもの、生きるものにしたのです。アダムは神が創造した最初の人間で、これが「クリエイション(創造)」です。神はその後、人間の創造を人間の男女に委ねたので、人間は現在、生殖によって新しい命を創造しています。それで、人間の生殖をプロクリエイションと言います。

このフレスコ画では、肉体が先にあって、後から精神を吹き込んでいますから、ここには少しインターバルがあります。トマス・アクィナスは今日のカトリック神学の基礎を築いた16世紀の神学者ですが、彼が唱えた「遅延入魂説」をめぐって、――我々には信じがたいことですが――神学者や哲学者の間では、今日かなりさかんな議論が見られます。しかし、トマスが遅延入魂説を唱えた当時、まだ卵子は発見されておらず、ヒトの生殖のメカニズムは、精子が女性の子宮に入ると、子宮内の血液が凝固してヒトのもとになると考えられていました。つまり、精子が女性の胎内に入って血液が凝固するまで、新しいヒトの発生まで、数日間のインターバルがあると考えられていたのです。遅延入魂説は、このような誤った生物学を前提にして唱えられものだったので、1827年に卵子が発見され、受精の生物学的メカニズムが解明されると、ほとんどの神学者によって放棄されました。ところが、遅延入魂説は後世の倫理学者によって再び取り上げられます――中絶合法化を根拠づけるため、そして今また初期胚の実験利用を合法化するために。

これは、ヒト胚をテーマに2006年に開催された生命アカデミーの国際会議のプログラムの表紙に使われた14世紀の絵です。右側の赤い服を着ているのがマリアです。マリアのおなかの中にはイエスがいます。そして左側にいる女性、エリサベトのおなかの中には洗者ヨハネという預言者がいて、2人が出会ったとき、おなかの中の子が喜び躍った、と聖書には記されています。

この絵を生命アカデミーが使ったのは、生まれる前の子どももコミュニケーションしていること、人と人とのかかわりをしていることを示したかったからだと思います。そして、次のような人格概念を提示します。「個人」だけが孤立してあるのではなくて、人と人とのかかわりが人格にとって不可欠な要素である。その人格的なかかわりは、自意識のレベルに限られません。ヨハネと洗者ヨハネは、母胎内にあって自意識はなかったかもしれないけれども、何かを察知してコミュニケーションしていた。それは、精神的なコミュニケーションなのですが、それを示したかったのだと思います。

生命アカデミーの文書は、この絵について直接解説しているわけではありませんが、先ほど水野先生がおっしゃっていた「胎児と母のコミュニケーション」が生化学のレベルで行われていることを、子細に証明しています。受精卵、胚が子宮に着床する時期はごく短期間に限られていて、子宮はこの期間を過ぎれば胚を受け入れません。この着床期の子宮の受精卵に対する許容状態は窓にたとえられて「着床ウィンドウ」と呼ばれています。このウィンドウが開くのに合わせて、胚も着床できる状態に変化するのだそうです。このように、母と子の間では、生化学レベルで非常に猛烈な対話が交わされています。したがって、着床は、母親が一方的に決めるのではなくて、子どもと子宮との間のクロストークなのです。双方の条件が整わなければ着床は起こらないことが、生物学的に明らかにされています。ヴァチカンは胚が母との間でこのような生化学的なコミュニケーション、物理的な対話が交わされることを証明して、胚が人格であることを示そうとしているのです。

時間がなくなってしまいましたが、最後に生殖補助医療についてお話させていただきます。これも、シエンツァとコンシエンツァの両面から考察する必要があります。

まず、シエンツァ、科学面。技術的な問題のほうでは、生殖補助医療技術はまだ研究段階にあることが明らかにされます。もしそうだとすると、ヒポクラテスの誓いに書かれているように、「害するな」が優先します。科学を発展させることはよいことですが、しかし害してはならないのです。まだ実験段階にあるということは、母親も胎児も、この技術によって害する可能性があるということです。

母親に対する害としては、まず第一に、妊娠率が非常に低いことが挙げられています。95%の成功率を得ようと思ったら、平均15回の施術を繰り返さなければならない。それは母親に強度のストレスを与え、多くの者がうつ状態に陥ります。不成功に終わる女性の8割が深刻な損害を被るのだそうです。

先ほど、大した問題ではないように言われていましたが、過剰排卵症候群というのは、死亡する場合もある、極めて危険な状態です。排卵誘発剤を使って一度に多くの卵子をつくり、それを体外に取り出すことは、後にホルモンのバランスが狂うなどして、かなり大きな負担になるようです。また、着床前診断を経た場合、妊娠率は非常に低くなります。着床前診断によって選別された胚の出生率は3%未満です。普通の生殖補助医療技術の場合は20%程度ですから、妊娠率は極めて低い。これもまだまったくの実験段階ということができます。

顕微授精は、人間の体軸を恣意的に決定します。精子が卵子に入り込む位置が、背骨の位置になります。それを、適当な場所に注射針を刺して精子を注入しても大丈夫なのか。恣意的に体軸の位置を決めてしまってもいいのか、このような人為的な操作は許されるのか。

他方、生まれてくる子どもに対しても深刻な損害を及ぼします。自然流産、早産、低出生体重児、――この低出生体重児というのは、要するに成長が不全だということですので、重い病気になりやすいなど、将来子どもにさまざまな負担を与えることになります。それから凍結。凍結されることで、受精卵は何らかの損傷を被る可能性があります。さらに、健全な人格形成の困難。先ほど言った親戚関係の複雑化などです。ヴァチカンは生殖に対する医療技術の介入はすべて否定されるべきだと言っているのではなくて、科学はもっと別の方法を探求すべきだと言いたいのです。科学というのはそんなに弱いものではない。倫理の限界に行き当たっても、別の道が開けるはずなのです。ですから、現在の生殖補助医療技術を無理に押し進めるのではなくて、倫理を曲げないで解決する方法はないのか。

今、ゲノム・プロジェクトの成果によってかなりの不妊の原因が特定できているのだそうです。これは、親のほうの遺伝子治療を可能とするものです。そしてこれこそが不妊の根本的な解決につながる本筋なので、こちらを一生懸命にやりなさいと、専門の研究者に働きかけるようなことをしています。

次にコシエンツァ、倫理面。「生殖の尊厳」を唱えます。英語ではdignity of procreation で、先ほど触れたとおり、reproductionではありません。物質レベルでは動物と同じreproduceかもしれませんが、生殖の結果もたらされる人間はreproduction(複製品)ではありません。人間は精神的な別の次元を帯びているので、procreationという別の言葉を使います。

カトリック倫理は、愛と生殖の一致を説きます。身体の一致と精神の一致は同時に存在すべきである。愛の実りが新しい命の創造でなければならない。産児が科学技術の成果やリプロダクションであってはならないのです。それは、物質面だけを推し進めるものであって、優生学と同じだ、と言うのです。ですから、労働の精神性、労働の尊厳を労働問題に持ち込んだのと同じように、生殖の精神性をどう考えるか、生殖補助医療にどのように盛り込むのか。この「プロクリエイションの尊厳」の考え方によっては、各論レベルではカトリックほど保守的でない別の答えがあるのかもしませんが、原理的にはこういう考え方が取られています。大事なのは、生殖の精神的な次元を重視すると、どうなるかということです。ここに何を盛り込むかは、それぞれの宗教や文化的事情によって多少変わってくるのだろうと思います。

イタリアの生殖補助医療法は、基本的にはカトリックの考えをほぼフォローしたものになっています。男女の愛と生命の創造の一致ということは書かれておりませんが、その考え方が背景にあります。

法施行後の実施状況なのですが、昨年4月に施行5年後の報告書が出ました。3年後の報告書も出されましたが、最も注目されるのは、受精卵が何人救われたかという、その詳細なデータが示されていることです。報告書は、もし法律が施行されていなければ凍結されていたであろう受精卵の数を各医療機関ごとに割り出して、5年間で大体12万人救ったということを記しています。そして、凍結される胚の数を減らしても、妊娠率に差はなかったのだそうです。ですから、技術の効率に変わりはない。2009年のレポートの課題は、母親の負担の軽減が数字に表れていないことです。先ほど言った過剰排卵症候群など、母親の負担はこの法律では解消できないから、今後これからどうするかということを考えるべきだ、そういう方向が示されています。

すみません、大急ぎでしたが、以上で終らせていただきます。

司会:ありがとうございました。それでは、質疑応答に入りますので、質問ある方。

小椋宗一郎: 小椋です。3ページ目の資料によりますと、やはり英米欧諸国の生命倫理と大陸法諸国の生命倫理は違う。一方は個人主義、一方は人格主義を目指しているかというのは、今日は僕もそのとおりだと思っていますけれども、微妙に僕が考える人間の尊厳というのと、秋葉先生がおっしゃる人間の尊厳というのは違っています。それはそもそも訳語の問題から明らかです。つまりドイツ語であれば人間というのはメンシュ(Mensch)というわけで、尊厳は、このMensch、英語で言うとhuman beingに備わるものであって、必ずしも人格というものに備わることを考えていないわけなのです。  ですから、1つ例を挙げると、人格権という言葉が強く出てきましたけれども、ドイツで人格権というと、自分自身のオリジナルな生き方を形づくっていくという意味なのです。自分の人格を展開していく権利、と〔ドイツ〕憲法第2条〔人格権〕は説明されます。イタリアの人格権というのは、途中でおっしゃったように、例えば両親から生まれる権利なのだと。家族とのつながりを持つ権利なのだとおっしゃるので、微妙に同じ人格権という言葉でも違いがあるのではないかと思いました。  やはり一番違うのは、例えばドイツ憲法、今日の短い時間では説明できないと思いますけれども、ドイツ憲法に取り入れられた人間の尊厳という概念に、一番決定的なのはカントの哲学です。それ以前、歴史的には人格主義の分脈から生まれてきたのは確かなのだけれども、カントと1945年以降のそれへの反省に立っている。ドイツの〔「法と倫理」〕審議会は、もはやキリスト教という特定の価値観には基づかないと言います。しかし、必ずしも反宗教的なわけではなくて、多元的な価値観に基づきます。その中にもちろんキリスト教カトリックも入ってきます。しかし、ほかの価値観を持つ人たちの総意でもって、その後憲法は支えられているのだという認識を持っているわけです。  もう1点だけ触れておきたいのは、関係的自己というもののとらえ方に関して。受精卵から人であるとカトリックでは捉えます。しかしドイツの審議会報告書などでは、産まれてからは完全に人であるとは言えるのだけれども、尊厳が備わるのはあくまでも人間なので、受精してから産まれるまでの間、その存在は人間の生命であって、人であるとも、人でもないとも言わないわけです。パーソン論のように人でないと言い切らない。しかし、人である、そこには魂が存するのだという言い方はできないのだと思います。  ツバイハイト・イン・アインハイト(Zweiheit in Einheit)という概念があります。中絶問題に関して言えば、胎児がもし人であるならば、その人を殺したのならば殺人罪に問われるわけです。ですから、堕胎罪はそもそもいらなくなるし、中絶した女性、医師は殺人罪に問われて何十年も刑務所に入れられるべきということになります。しかし、それを堕胎罪という形で、あるいはドイツのように相談を挟むという形で、未来への取り組みにつなげていけるのは、やはり〔人であると言い切ることに対する〕懐疑的態度のためだと思われます。やはり人であると言いきってしまわないという違いは大きいと思っています。

秋葉: 幾つかお答えできると思います。最初のメンシュとパーソンについて。パーソンという言葉はもともと「人格」という意味ではなくて、「ペルソナ」(persona)という神の位格のことでした。神には「父」と「子」と「聖霊」の3つの位格があります。それがペルソナ、パーソンなのです。「父」と「子」と「聖霊」の3つで1つの神なのです。その3つは相互にやりとりするのです。「父」と「子」から出る「聖霊」は愛だと思っていただいていいのですが、その「父」と「子」が愛の交流をする、それがキリスト教の神です。よく一神教と言われるのですけれども、3つのペルソナがあって、その交流自体が神なのです。
今、このペルソナ概念を重視して、議論を組み立てることを試みています。稲垣良典先生というトマス・アクィナス研究の大家が、最近、「自存する関係」というトマスのペルソナ概念に着目しています。「自ら存在する関係」、これがトマスのペルソナ概念です。
人格についてはいろいろな説明の仕方があります。人間とは何かを定義するわけなので、人間のどの部分に目をとめるかで説明は全然違ってきます。ドイツがカントをもとにしているのは、共通の哲学で議論をしようと思ったからです。キリスト教の神学の部分を切り捨てて共通の概念のみを取り上げて世俗的な哲学にしようと思ったのがカントですけれども、下手をすると理神論になります。
今おっしゃったようなことは、神学者の間でさかんに議論されています。イタリアでいくつか、カントの悪いバージョンがたくさん生命倫理で使われている、カントの読み直しが必要だ、ということを指摘する文献を手にしました。読みこなせなくて断念しましたが、理神論的な部分の強調に対する警告は、いろいろなところで発せられていて、人格概念の定義のし直しという、先ほどの稲垣先生のような取り組みも出てきたということです。
人格あるいは人間の始まりがいつかということについては、今日は説明できなかった部分なのですが、たとえばブロックで橋を造るときに、最初のブロックを1個置く。このとき、それは塀か家か橋かわからないです。しかしその橋の設計者は、橋を設計したのですから、その橋を造るための最初のブロックを1個据えたときに、そのブロックは何かと言われたら、マテリアルはブロックですが、フォルムは橋です。最初の1個のときから橋です。ですから、物理的なヒトの始まりがあれば、その生命体のDNAがヒトのDNAであるのであれば、それはもう人間なのです。そういう議論をしています。しかしフォルムとマテリアルを持ち出すのは形而上学だといって、以前、研究会で日本の哲学者に批判されたことがあります。
中絶の問題は、人間の始まりの問題と一緒に論ずると話がややこしくなります。これは別の問題です。母体外に受精卵が存在していて、それを毀滅できるかどうかという議論と、おなかの中にいる赤ちゃんをお母さんが中絶してもいいかどうかという議論とは同列には論じられません。ですから、これは別の倫理の問題としてとらえます。
これについても、今イタリアで中絶法の見直しも始まっています。きちんと議論をフォローしていないので今、ご説明できないのですけれども、数年前、この問題について簡単な論文を書きました。人間の命を殺すことは、法的には違法です。正当ではありません。人殺しは正当防衛など、いくつかの例外を除いて基本的に違法ですが、違法行為を犯したお母さんの行為を処罰するかどうかは別の問題です。
刑法は違法であるだけで処罰しません。違法性と責任と両方がなければ犯罪は成立しないのです。強姦されたような場合、中絶するなということは言えない。この場合お母さんには殺すなということを期待できません。「期待可能性の理論」というのがあって、あるいは、「緊急避難」のような条文もありますので、刑法上は責任阻却という形で、これは犯罪にはなりません。これが私の理解です。
つまり、人をあやめることについては、正当である、すなわち違法性がないとは言えません。そのときお母さんが殺すことが「正しい」とまでは言えないです。しかし、中絶の違法性は維持するけれども、そのお母さんについては責任を阻却することができます。だけれども、シャーレの中の受精卵を誰かが壊したときに、そういう期待可能性の理論は使えないですから、体外受精卵の議論をするときに、その妊娠したお母さんと赤ちゃんとの関係を持ってくることは全然違う、というのがヴァチカンとイタリアでの議論です。

小椋: 1つレンガを積んだとき、それは橋のマテリアルだけれど、すでに橋のフォルムもまた別にあるというお話をされました。しかし他方では、神と子と聖霊の関係にならって共同性をもつ人と人との関係の中の人なのだとおっしゃいました。
胎児という存在は、生物学的に切り開いてみれば、そこに受精卵があり胎児がいるのでしょうけれども、妊娠という状態では、妊娠という事実をその人しか知らないかもしれないし、その人さえ知らないかもしれないのです。ドイツの第二次堕胎判決が言うには、もう既に中絶するかしないかというときには、自分自身の運命がミットベシュティムト・ザイン(mitbestimmt sein)、つまり子どもとともに定められている状態だとされます。
ですから、ヴァチカンのように生物学的な説明だけから胎児の法的地位というものを導くわけではなくて、ある社会的な意味での人間のとらえ方から答えを見出しているところが違うと考えています。

秋葉: 先ほどお答えするのを忘れたところですが、母と子の間には、先ほどご説明した、生化学的なレベルでの交流はあるのです。お母さんが子どもを下ろそうと思っていても、あるいはお母さんがまだ妊娠していることを知らなくても、子宮の中で生化学のレベルでたんぱく質やホルモンのやりとりがあります。交流です。
もう一つは、カントの理神論を先ほど批判したのですが、今ヴァチカンで試みようとしてことは、自然道徳法をもう1度構築しようということです。ハーバーマスとラッツィンガーの対話が行われたのですが、ラッツィンガーはこのとき、「キリスト教の倫理は普遍ではない」ということをはっきり言っています。ハーバーマスは「対話」をします(ディスクルス)。ですから、個人主義生命倫理が反抗から出てきたことは間違いないのだけれども、両者は協調できないから決裂、というのでなくて、どちらも普遍ではない。カトリックも、とにかく現教皇が普遍ではないと言っています。それで、ヴァチカンで今目指しているのは自然道徳法です。それで、他宗教の人を招いて一緒に会議を開催したりしているわけです。つまり、共通点を見出そうというのです。
人間の尊厳概念を世界人権宣言を持ち込んだのはジャック・マリタンでしたが、これは、彼が一番心配していたことでした。人間の尊厳という概念はキリスト教以前にさかのぼることができるようですが、うまく共通の意義を見つけていかないとバラバラになってしまうということをマリタンはすごく心配していました。ヴァチカンが今目指しているのは、それを構築するための対話を続けていって、何とか共通項を見いだせないだろうかということです。それをかなり組織的にやっています。

石川公彌子: 今のお話に関連して伺いたいのですけれども、例えば神道とカトリックの生命倫理観の共通の可能性というのを伺いたいのですが、具体的には日本の宗教の場合、平田篤胤がマテオ・リッチなどの漢訳のカトリック関係の書籍の影響を受けて、幽冥論を展開し、そこで死後の審判概念であるとか、オオクニヌシが死後の世界を統一していて、それをゴッドだというように表現しているのです。
ですが、明治以降にいわゆる国家神道が整理されていく過程において、天皇制に抵触しないように教義が変えられていってしまって、死後の審判概念というものがなくなってしまいましたし、その死後の世界を統一していたオオクニヌシというのは、アマテラスの下 に置かれる存在として変えられていったという経緯がありまして、ただ戦後になりますと、GHQが神道指令を出してきて、神道の存続が危うくなってくるという状況が出てきますと、特に折口信夫が戦前からの国家神道批判を展開させて、神道の普遍宗教化ということを明確に主張して、死後の審判概念の復活や、オオクニヌシを中心として一神教的な神道を主張します。戦後、GHQによる神道指令によって神道の存続が危うくなっていくと、神社本庁がかなり積極的に折口の思想を取り入れようとする流れがあって、同時期に例えば高松宮が神道はキリスト教とタイアップするべきだということを述べるのです。特に、教学面において、神道にはそういう教学が欠けているので、キリスト教から教学部分を借りるべきだということが主張されていきまして、歴史的に言えば、神道指令の適用条件が緩和されて、神道の存続が決まったことによって、折口であるとか、高松宮のような神道のキリスト教とのタイアップ説というのが、実は追放されていくことになるのですけれども。
歴史的にはこういう経緯がありますので、私個人としてはかなり神道とキリスト教の生命倫理観といったものには共通性が見いだせるのではないかと考えていますが、その辺いかがお考えなのか、お聞きしたいと思います。

秋葉: 最初にグレゴリアン大学に留学したときに、国学院大学から毎年研究生が来ていました。それから、後にローマ・カトリック大学でお世話になったセラ先生は、ヒト遺伝学の名誉教授でした。彼のところには大本教の人も勉強に来ていて、大本教ではそれをもとにして、ES細胞研究に反対の意見を表明したと聞いています。グレゴリアンには天理教と、創価学会の人も来ていました。私がヒトの初期胚の尊厳の話の依頼を最初にいただいたのは創価学会の研究機関でした。
大井玄先生の著書を引用させていただいたのは本日が初めてでしたが、大井先生の著書は、仏教のアラヤー識とか、そういう仏教の宇宙観、人間観に関する説明がかなりの部分を占めています。この中に無意識についての仏教的な説明があり、大井先生が別の立場からカトリックと同じ結論を導いておられるのを見て、仏教とも接点があるのだろうと思いました。ですから、もとがヒポクラテスの「医の倫理」であるところからもわかるように、人格主義生命倫理が自然道徳法にかなった考え方であるとすると、倫理の問題に敏感な人たちは、多分、この立場に賛同するのだろうと思います。ですから、神道と同じ考えであっても一つも不思議ではないし、カトリックがやっていることは、本当に「ヒポクラテスの現代化」ですので、普遍的に使うことができるのではないかと私は思っています。
今、富山県の医師会で、延命治療の中止の問題について取り組みが行われておりますので、イタリア医師会の職業倫理規則をご紹介したりしています。倫理の問題を中心にして、なるべく政治的なことや社会的なことなど、イタリアの特殊事情に踏み込まない範囲では、その原理・原則の部分など、考え方の基本線は同じではないかと思っています。
ですから、個別の対応では幾らか違いが出てくるかもしれませんが、故意に反対の立場を取らない限り、大体同じ方向で一致できるのではないかと思っています。あるいは、人間尊厳以外の最高原理を持ちこまないのであれば、大体折り合っていけるのではないかと思っています。

小門穂: 補足と質問をさせていただきたいのですけれども。補足は、先ほどの私の発表でわかりにくい言い方をしてしまって申しわけなかったのですけれども、フランスでヒト胚研究を原則的に禁止をされていまして、今5年間、2006年から2011年の5年間に限って例外的に認められていまして、人のクローニングについては、刑事罰つきで禁止されています。
質問なのですけれども、生殖補助医療法はすごく厳しいものだという印象がありまして、これに従うと、受ける女性の身体は結構負担が大きいようにも思えるのですけれども。というのは、例えば排卵誘発かけて出来た受精卵全部凍結しないとなると、全部移植するということですよね。そしたら、多胎妊娠が……。

秋葉:2個までか、3個までか決まっています。

小門:決まっているのですか。

秋葉:最初から受精する予定以上の数は作っては駄目なのです。

小門:作れない。わかりました。では、卵子がたくさん採れても、それは2つ3つ以外には受精もさせず。

秋葉:させないです。

小門:その卵子は廃棄するということですか。

秋葉:そうです。

小門:わかりました。

秋葉:最初から受精させないです。

小門:そこから作らないということなのですね。

秋葉:はい。

小門: ありがとうございます。あと、イタリアにアンティノリ氏という有名な人がいたなと思って60代の女性に子どもを産ませたりとかしていましたが、生殖補助医療法ができるとああいう極端なことはできなくなると思うのですけれども、アンティノリ氏とか、そういう感じの極端なことをしていたような人たちは、生殖補助医療法への反対運動をしなかったのかとか、今はどうしているのでしょうか。

秋葉: アンティノリはセラ先生の生徒でした。イタリアに行ったときに先生は非常に怒っていました――カトリックの医学部ですので。結局、カトリックの医学部といってもやはりいろいろな人がいて、セラ先生によると、2割だけがいい医者であとはとんでもない、ということをいつも嘆いていらっしゃいます。しかし、アンティノリの事件については、彼はよくテレビに出てもう随分話したらしくて、セラ先生はそれを泣くほど怒っていらしたということです。
生殖補助医療法ができる前から、イタリアは医師の職業倫理が厳しくて、職業倫理規程のほうで違反すると免許取り上げになってしまいます。彼が今どうしているかはその後、聞いていませんが、これで完全にできなくなっただろうと思います。
先ほどご説明しなかったのですが、生殖補助医療法に対してはもちろん反対があって、2005年6月、スライドの32のところに書いてあるのですが、規制緩和を求める国民投票がありました。日本の新聞でも、報じられたのですが……。

この後も30分程度の議論が続きました。(2010年6月14日・柳原)

ロシアの現状

2017年12月現在

法律

ロシアでは、1995年に採択された家族法51条と53条で代理出産に関する言及がなされ、代理母の同意によって、「みなし親」(intended parents)は、出生証明書に記載されることが定められた。また最新の法では、新健康管理法の55条(new health care bill, article 55)で代理出産を含めた生殖補助技術(ART)と代理出産の利用について定めている。この新健康管理法を含め、ロシアのこれまでの法律は、有償・無償の別なく代理出産の実施は合法である。

近況

ロシアはかねてからヨーロッパ在住者の生殖アウトソーシング先として有名であった。近年になり、インドやタイ、ネパールなど、アメリカ人の主なアウトソーシング先であったアジア各国が代理出産を禁止したことに伴い、ロシアやウクライナ、ジョージアなど東欧の国々が、アメリカ人も対象とした、世界的な生殖アウトソーシングの場として知られるようになっている。

ロシアの代理母が受け取る報酬は、ロシアの平均的な教員の1年半分に相当し、金銭面で動機づけられたロシアの貧困女性が大挙して志願している。それは表面上は「同意」でありながらも、女性たちが「喜んで他人に身体を貸す」ことの「経済的な強制」だと問題視している。2

この現状に対し、かねてからロシアのキリスト教信者の殆どが属するロシア正教会は、2013年には代理出産を「神への反抗」、「幸せファシズム」などと強く批判しており、同年に議会でも禁止法案が検討されてきた。3 とりわけ商業的代理出産は厳しく批判されている。2014年にロシア連邦議会下院「家族・女性・子供委員会」委員長は、部分的に代理出産を容認するものの、商業的代理出産は禁止すべきとの見解を示している。

代理出産の禁止を求める議論は2017年3月に再燃し、禁止法が再検討され、4 2017年11月には、代理出産をロシア国内で禁止されている売春に例えた上で、Anton Belyakov上院議員が禁止法案を提出した。5、6

*付記

2018年1月23日に放送されたTV番組『ミヤネ屋』や、雑誌『婦人公論』2018年2月13日号では、丸岡氏は代理母がクリスチャンである事に言及し、宗教観ゆえに代理母になったことを暗示しているが、ロシア人代理母がクリスチャンであることは、彼女が宗教的理由から代理母を引き受けることを説明する根拠とはならない。

ロシアのクリスチャンの96%以上を占めるロシア正教会は、代理出産そのものを強く批判しており、政府に禁止を求めている。またロシアのクリスチャンには1.6%のカトリックも含まれるが、周知の様にカトリックは、人工授精はもちろんあらゆる生殖技術を、長らく批判し続けている。近年では、体外受精を発明したエドワーズ博士へのノーベル賞授与に対し、ローマ教皇が不快感を示したことが記憶に新しい。

 

1 https://www.huffingtonpost.com/entry/surrogacy-ukraine-russia-georgia-czech-republic_us_595fa776e4b02e9bdb0c2b47 (2018年2月24日訪問)

2 ‘Mutiny against God’: Surrogacy in Russia thrives thanks to lack of regulation, published on Nov 28, 2017, https://www.lifesitenews.com/news/mutiny-against-god-surrogacy-in-russia-thrives-thanks-to-lack-of-regulation (2018年1月31日訪問)

3 Russian Lawmaker Proposes Ban on Commercial Surrogate Motherhood ”The Moscow times”, issued on April 24 2014. https://themoscowtimes.com/news/russian-lawmaker-proposes-ban-on-commercial-surrogate-motherhood-34637 (2018年1月31日訪問)

4 Bill banning surrogacy reaches Russian lower house of parliament published on March 27, 2017. http://www.rapsinews.com/legislation_news/20170327/278106535.html

(2018年1月31日訪問)

5  Russia Considers Ban on ‘Immoral’ Commercial Surrogacy Industry, published on Nov. 23, 2017

https://www.newsdeeply.com/womenandgirls/articles/2017/11/23/russia-considers-ban-on-immoral-commercial-surrogacy-industry (2018年1月31日訪問)

6 Russian surrogacy, controversial and unregulated, published on 24 Nov 2017

https://www.bioedge.org/bioethics/russian-surrogacy-controversial-and-unregulated/12528 (2018年2月10日訪問)

【参考文献】

  •  E. Scott Sills (ed), 2016, Handbook of Gestational Surrogacy: International Clinical Practice and Policy Issues, Cambridge University Press.

共催イベント〈科学と社会シンポジウム〉

Fear, Wonder, and Science:リプロダクティブ・バイオテクノロジー新時代における科学と社会

日程:2018年3月2日(金)17:30~20:30 (開場17:00) ★終了しました

場所:東京ウィメンズプラザ/ホール(表参道)→場所のリンク

概要:
昨年夏に刊行された生殖技術に関する一般向け書籍『Fear, Wonder, and Science in the New Age of Reproductive Biotechnology』(生殖テクノロジー新時代の不安、驚異、科学)。発生生物学者・科学史家の著者2名によるレクチャーを通し、発生生物学最新の知見からみた生殖医療の現状と、これに関連する社会的課題を議論します。

プログラム

  • 講演1:スコット・ギルバート
    (アメリカ・スワースモア大学、フィンランド・ヘルシンキ大学)
  • 講演2:クララ・ピント-コレイア(ポルトガル・ルソフォナ大学)
  • 日本の生殖医療の歴史と現状報告:鈴木良子(フィンレージの会)
  • コメンテーター:柘植あづみ(明治学院大学)、Chia-Ling Wu(台湾大学)

*入場無料・参加申込み不要
*同時通訳あり(レシーバー使用:先着100名)

共催

  • 代理出産を問い直す会
  • 総合研究大学院大学先導科学研究科「科学と社会」分野
     

    協力

  • 東京大学情報学環佐倉研究室

お問い合わせ

総研大・水島 mizushima_nozomi★soken.ac.jp(★を@に変えて下さい)
Facebook: https://www.facebook.com/Fearwondersympo


翌3/3(土)14時から、総研大主催のイベントとして、東京駅近辺にて、クララ・ピント-コレイア先生の単独セミナーも実施します(定員20名)。詳しくは上記問合わせ先まで。

【印刷用チラシ】

各種機関の声明文、判決文、その他関連団体

日本学術会議報告書 (2008年4月8日)

「代理懐胎を中心とする生殖補助医療の課題―社会的合意に向けて―」リンク
代理出産は原則禁止。例外的な試行のみ認める。

日本産婦人科学会

生殖技術に関する会告一覧 リンク
代理出産関連は、2003年4月「代理懐胎に関する見解」会告にて禁止 リンク

日本弁護士連合会

生殖医療技術の利用に対する法的規制に関する提言 2000年3月 リンク
胚の提供・代理母・借り腹(ホストマザー)を禁止。商業主義を禁止し、違反に対しては刑罰を科すことを提言する

品川事件(TVタレント夫妻による米国への渡航生殖の事例)

最高裁判所第二小法廷平成19年3月23日判決  全文へのリンク
1 民法が実親子関係を認めていない者の間にその成立を認める内容の外国裁判所の裁判は,民訴法118条3号にいう公の秩序に反するものとして,我が国において効力を有しない。
2 女性が自己以外の女性の卵子を用いた生殖補助医療により子を懐胎し出産した場合においても,出生した子の母は,その子を懐胎し出産した女性であり,出生した子とその子を懐胎,出産していない女性との間には,その女性が卵子を提供していたとしても,母子関係の成立は認められない。

SOSHIREN 女(わたし)のからだから

刑法・堕胎罪の撤廃を求めるフェミニストらによるグループ。
生殖技術に関する意見書・声明も出している。声明一覧へのリンク

第三者の関わる生殖技術について考える会

代理出産、卵子提供、非配偶者間人工授精(AID)について扱っている。AIDで生まれた人も参加し、それらの技術に批判的な意見を述べている。リンク

非配偶者間人工授精(AID)で生まれた人の自助グループ(DOG)

実際に生まれた人々によるグループ。慶応大学におけるAIDを含め、様々な形式のAIDで生まれた人が参加している。 リンク
*このグループに連絡を取りたい方は、本会代表の柳原にメールを出して頂ければ、先方におつなぎします。代表の連絡先はこちら

比較ジェンダー史研究会

ジェンダー法学のサイトに生殖補助医療・代理母に関する説明がある。法整備に関する流れが分かりやすくまとめられている。リンク

 

代理母出産・借り腹、代理出産、代理懐胎の表記について

2018年初頭の丸岡いずみ氏に関する報道、また本人の手記では、他者の卵子を用いた受精卵で女性を着床・妊娠させ、生まれた子を得る《契約妊娠》を「代理母出産」と表記しています。現時点(2018年1月28日)でのマス・メディアの表記には、丸岡いずみ氏の表現にならい「代理母出産」とするメディアもあれば、「代理出産」とするメディアもあるなど、表記にブレがあります。

「代理出産」とは

日本では、アメリカで1976年に発明された、生まれた子を引き渡すことを前提に妊娠・出産を行う《契約妊娠》を「代理出産」と表記しています。これは英語”surrogacy”の日本語訳であり、学術専門家により、長らく用いられている表現です。この表記は日本で初めて開設された代理出産斡旋業「代理出産情報センター」(鷲見ゆき代表)や、1 自ら経営するクリニックで姉妹、母娘間で代理出産を実施した根津八紘医師による表記、衆議院議員野田聖子氏など、このような《契約妊娠》に対する立場の別を問わず、広く共通して用いられているものです。2

「代理出産」という表記の混乱

一方、大衆向けの雑誌記事では、人工授精を用い、遺伝的にも代理母の子である新生児を引き渡す代理出産を「代理出産」と呼ぶ一方、代理母以外の卵子(依頼者の卵や第三者からの提供卵)を体外受精させた受精卵の移植による代理出産を「代理母出産」と表記する例が見られます。しかし、この表現に対応する英語表記は存在していません。おそらく「代理母」(surrogate motherの訳)と、体外受精を用いる「ホスト型代理出産」(host surrogacyの訳)とを混在させた用語と考えられます。

「代理母出産」の大衆向けのマス・メディアにおける初出は、上述の斡旋業者、鷲見ゆき氏が自らの斡旋業の名称を「代理母出産情報センター」に変え、体外受精を伴う「代理母出産」と人工授精を用いる「代理出産」を区別して論じた事に端を発しています。3 この時期から、大衆向けのマス・メディアを中心に、「代理母出産」と「代理出産」を区別する表記が現れますが、その区別は必ずしも厳格ではなく、ときには反対の意味で(すなわち人工授精による代理出産を「代理母出産」、体外受精による代理出産を「代理出産」として)用いられることもありました。4 

このように「代理母出産」は、日本国内で曖昧な理解のまま流通する表記でありることから、現在ではこの問題に詳しい専門家の間では、用いられることはありません。一方、近年では娯楽向けのコンテンツの中で、国際的な用語はもちろん日本国内の専門用語も無視した形で「代理母出産」の表記が用いられています。しかし上述したように、この表記は正確性に欠けると共に、主に商業的代理出産の斡旋業者が利用する言葉であることから、客観的な議論を困難にする危険もはらんでいます。それゆえ本会では、この問題を公に論じる文脈では、「代理母出産」の表記を採用すべきではないと考えています。

「借り腹」という表現

また、体外受精を用いた契約妊娠(上記の区別に従えば『代理母出産』)に対しては、長らく「借り腹」という表記が用いられてきました。これは体外受精を用いた代理出産が、学術的には「宿主」を意味する”host”の用語を用いた「ホスト型代理出産」「ホストマザー型」と表記されていたことに由来する表記と考えられます。この表記は、大衆向けのメディアや専門家、行政の別を問わず、広く使用されていました。たとえば日本弁護士連合会は2000年の提言 で、また2003年の厚生労働省生殖補助医療部会の報告書でも、「借り腹」という表記が用いられています。6

「人工授精型代理出産」と「体外受精型代理出産」

研究者や専門家を中心に、米国で流通する用語の直訳として「伝統的代理出産」「従来型代理出産」や「ホスト型代理出産」「IVFサロガシー」など様々な表記が用いられる中、2009年に国際ジャーナリストの大野和基氏が「人工授精型代理出産」「体外受精型代理出産」の表記を産み出しました。7 この表記は「伝統的」「ホスト型」といった従来の表現がもたらす語弊を含まない、明確な表現であることから、それ以降、とりわけ人文系の学術的議論では、この用語が利用されるようになっています。

本会および本サイトでは、この方法がこれまで、さまざまな医療者や研究者はもとより、依頼者や代理母本人により「代理出産」の言葉で表記されてきた事実と、大野氏の発案を受けて代理出産の形態を明確に区別する用語が表れ、表記上の誤用の生じる懸念が消えたことを考慮し、用いられる技術の別を問わず、「生まれた子を引き渡す目的で行われる契約妊娠」を、従来通り「代理出産」と呼んでいます。

「代理懐胎」について

なお2000年代になると米国では、代理母と子が遺伝的に繋がっている人工授精型代理出産(”traditional surrogacy”)と、代理母が子と遺伝的に繋がらない体外授精型代理出産を区別するため、”gestational surrogacy”の用語が用いられるようになりました。8 それに伴い日本国内では、本用語の日本語訳として、しばしば「代理懐胎」の表記があてられ、これが現在まで、医療者を始め自然科学の領域を中心に、日本の学術的な議論でしばしば用いられています。

しかし一方で、2003年の厚労省部会報告の36頁「「代理懐胎(代理母・借り腹)は禁止する」の項 に見られるように日本の専門家団体や行政の間では「代理懐胎」を「人工授精型代理出産」(代理母)と「体外授精型代理出産」(借り腹)の両方を含めた”surrogacy”の訳として用いています。そのため日本国内では「代理懐胎」が、その英語訳である”gestational surrogacy”なのか、または英語の”surrogacy”にあたる意味なのかは、各自が文脈により判断しているのが現状です。このような状況も考慮し、本会および本サイトでは、語弊の生じる可能性の高い「代理懐胎」の表記もまた、その使用を控えております。

 


1.この日本初の代理出産斡旋業は、アメリカ人弁護士ノエル・キーンによる代理出産斡旋会社ICNY の東京事務所として開設されたものです。ノエル・キーンによる代理出産の発明についてはこのページを参照。
2.代理出産(surrogacy)に対する上記の定義(生まれた子を~契約妊娠)は、本会が定めたものではなく、これまで代理出産を論じる際に、英語圏の議論で長らく用いられてきた概念です。
3.初出は、雑誌『女性自身』1995年9月12日発行号の226-229頁。
4.たとえば『女性自身』、2002年3月12日発行、30頁。
5.日本弁護士連合会 生殖医療技術の利用に対する法的規制に関する提言(2000年)リンク
6.厚生科学審議会生殖補助医療部会「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療制度の整備に関する報告書」(2003年)リンク
7.大野和基、2009、『代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳』、集英社新書。
8.Charles P., Kindregan, Jr. and Maureen McBrien. (2006) Assisted Reproductive Technology: A Lawyer’s Guide to Emerging Law and Science. Chicago: American Bar Association.
9.テキストはこちら

声明文(2009年12月20日)

諏訪マタニティークリニックにおける代理懐胎事例の報道に対するコメント

 2009年11月後半に一部メディアより、日本国内のクリニックにおいて、女性が遺伝的な孫を産む形での代理懐胎が実施されたことが報道されました。
本会は以下の見解から、親が孫を産む代理懐胎を遺憾な行為と捉えております。また代理懐胎の根底には、懐胎した当事者、依頼者、医療者の別に関わらず、女性の身体を「産む機械」と捉える眼差しが存在しております。このように女性の身体を貶める思想を普及させようとする当事者たちに対し、ここに強く批判の意を表明いたします。
  1. 身体的リスク
    閉経した女性を妊娠・出産させる行為が一般化すれば、高齢者が身体的リスクを伴いながらも、妊娠・出産を選択せざるを得ないような環境が形成される。それは高いリスクを伴っていても、妊娠・出産目的のためには、健康な身体をエンハンスメント(身体改造)すべきとの発想を普及させる。
  2. 「産む機械」としての発想
    年齢に関わらず女性を妊娠・出産させる行為は、女性が本来持つ身体的機能や、年齢と共に獲得する社会的役割やアイデンティティを捨象させ「産む機械」として捉える視点を強化する。このような認識が普及すれば、不妊女性はより強い社会的圧力を受け、当事者の苦しみはより強いものとなる。
  3. 母性イデオロギーの強化
    女性が命を危険に晒して母性を貫くことを、あたかも自明の本能的な性質とみなす本件は、多くの女性に対し、母性の名の下に更なる自己犠牲を求める危険をもたらす。
  4. 家族関係の変化
    今回の代理懐胎実施例では、母と娘の関係性のみが強調され、その他の家族関係は殆ど語られなかったが、そこには必ず精子の提供者(娘の夫)がおり、その提供者にも、実母や実父や実子など、懐胎者以外の家族関係がある。また懐胎者にも、娘以外の家族がいる場合は、そこにも家族関係が存在する。
    一般的に家族間の代理懐胎は、家族以外の他者に影響が及ばないことを根拠として正当化されがちであるが、懐胎者と依頼者以外の家族メンバーに対し、代理懐胎で利益を得る当事者たちの一方的な語り以外に信頼できる報告がなされていない現状で、家族が何ら深刻な影響を被らないという言説に根拠は存在しない。
  5. 子どもの福祉
    医療面での安全性が増し、子どもに対する医学的リスクが消失したり、法的に実子として扱われたりするなど、現在まで指摘されてきた問題点が克服されたとしても、第三者を介して生まれた事実は、実際に生まれた子に、多大な負担をもたらすことが予想される。現に日本では、法律婚の夫婦の間に非配偶者間人工授精により生まれた子たちが、成長してから自らの出自について悩む例が生じている。この現状から見ても、より親子関係の複雑化する代理懐胎において、生まれる子ども達が、深刻な悩みを抱えないと推測するのは困難である。

 

以上
2009年12月20日
代理出産を問い直す会

海外の論客

団体

  • 「代理出産を拒否するフェミニスト」。スウェーデンの女性団体。リンク

個人

  • Kajsa Ekman
    1980年ストックホルム生まれのスウェーデン人ジャーナリスト。「代理出産に反対するフェミニスト(Feminists Against Surrogacy)」のメンバー。

代理出産に関する書籍:Being and Being Bought: Prostitution, Surrogacy and the Split Self(在ることそして成らされること:売春、代理出産、自己の分裂)リンク:米国のアマゾン

代理出産に関する記事:Surrogacy, Reproductive Prostitution and Child Trafficking(代理出産、生殖売春、そして子供の売買)リンク